癒しは、前に進むためにある。
だが時々それは、前に進まないための許可証になる。――裏思考遊戯。
ネットビジネスの世界で、A男はずっと走っていた。
記事を書き、数字を追い、改善して、また書く。
それなのに、ある日を境に、景色が止まった。
売上は伸びない。
アクセスも踊らない。
伸びない数字を見つめる時間だけが増えていく。
「どうして、こんなに上手くいかないんだ」
A男は答えを探すふりをして、同じ画面を何度も更新した。
迷っているというより、迷っている状態に慣れていた。
そんな夜、ネットサーフィン中に、一本の記事が刺さった。
山奥の古い寺院の住職が書いたという文章だ。
「心の迷いを解き放つ」
その言葉は、努力で擦り切れたA男の胸に、柔らかく落ちた。
“頑張る”では届かない場所に、別の入口がある気がした。
A男は、寺へ行った。
都会の音が消え、山の空気が冷たく澄んでいた。
案内された瞑想の部屋は、静かすぎて、自分の呼吸がうるさく感じた。
住職は、穏やかな声で言った。
「心の奥底に何があるか、知っているか」
A男は答えた。
「成功したいという欲望です。でも今は、それが見えなくなりました」
住職は微笑んだ。
「奥底には、もっと大切なものがある。自分を受け入れることだ。
焦りも、欲望も、弱さも、まず許す。そこから道は開く」
A男はその言葉に、救われた気がした。
瞑想を続けるうちに、胸の締め付けがほどけていく。
夜、A男は住職に言った。
「少し軽くなりました。でも、まだ完全じゃない気がします」
住職は頷いた。
「それでいい。解放には時間がかかる。焦らず、ゆっくり進めばいい」
A男は帰った。
都会に戻ったA男は、確かに軽かった。
焦っていた自分を、少しだけ笑えるようになっていた。
そしてA男は、新しい言葉を覚えた。
「焦らなくていい」
「自分を許す」
「ゆっくりでいい」
最初、その言葉は薬だった。
だが薬は、量を間違えると別のものになる。
A男は作業を止めたわけではない。
ただ、止まり方が上手くなった。
記事を書く前に、瞑想をした。
改善案を考える前に、「焦る自分を許した」。
数字を見る前に、「比較を手放した」。
気づけば、A男の一日は、整えることで埋まっていった。
整ってからやろう。
完全に軽くなってから進もう。
迷いが消えてから動こう。
A男は、最深部に触れている気がしていた。
でも、それは触れているだけだった。
引き上げて、使って、現実を変えるところで、必ず止まる。
数週間後、A男は静かに気づいた。
心は軽い。
だが数字は、何も変わっていない。
そのときA男は、寺で聞いた言葉を思い出した。
「焦らず、ゆっくり」
A男は、その言葉にすがっていた。
ゆっくりという名で、先延ばしをしていた。
受け入れるという名で、中途半端を肯定していた。
A男はもう一度、寺へ行った。
住職に、同じ質問をした。
「まだ完全じゃありません」
住職は変わらず穏やかに答えた。
「それでいい。ゆっくりだ」
その瞬間、A男は理解した。
住職の言葉が間違いなのではない。
A男が、その言葉を逃げ道として使っているのだ。
帰り道、A男は立ち止まった。
山の空気は澄んでいた。
だがA男の中に、別の濁りが見えた。
最深部とは、癒しの場所ではない。
本当の最深部は、「怖いのにやる」という一点だ。
受け入れるとは、動けない自分にOKを出すことではない。
受け入れた上で、一つだけ出荷することだ。
A男は家に帰り、紙に書いた。
「今日は、記事を一本出す。
完璧じゃなくても、出す。
軽くなるのを待たずに、出す」
その紙は、どこにも捨てなかった。
机の上に置いた。
逃げ道ではなく、道しるべとして。
さて。
あなたが「整えている」と思っている時間は、本当に前進だろうか。
それとも、前に進まないための中途半端な最深部だろうか。
あなたは今日、整う前に何を一つ出すだろう。
* * *
ここで、この話の裏側を言う。
癒しは本来、前に進むためのものだ。だが癒しは、簡単に「進まない自分を正当化する言葉」に化ける。
整える、手放す、許す、焦らない――それらは正しい。けれど、それを“行動の条件”にした瞬間、人生は永遠に準備中になる。
最深部に触れた気がしても、現実が動かないなら、それは触れただけだ。
中途半端が問題なのではない。中途半端を「成熟」と呼び替えた瞬間に、止まる。
裏の問いは一つ。
あなたはいま、癒しを使って前に進んでいるだろうか――それとも、前に進まないために癒しを使っているだろうか。