愚かさを減らすために、命の入口を整える。だが、その整備は何を救い、何を奪うのか。命をめぐる思考遊戯。
A博士は、人間の愚かな行為を無くすことができないか、真剣に考えていた。
戦争、犯罪、搾取。繰り返される惨事を前に、教育や制度だけでは限界があると感じていたのだ。
研究のはじまりは、ふとしたきっかけだった。
偶然見つかった一つの因子が、攻撃性や衝動性の発火を左右しているらしい。
試行錯誤の末、その因子が環境と結びつく条件を突き止め、博士は新しい発見に辿り着いた。
その後、遺伝子工学の進歩により、健康で若い肉体のまま超高齢化社会が実現された。
寿命は伸び、病は抑えられ、老いは遅らせられた。人は長く生き、長く働き、長く学べるようになった。
やがて、生殖も変わった。
セックス無しで、高齢でも子供を創ることが可能になった。
出生は「偶然」から「設計」へ移り、望まれない妊娠という事故は減っていった。
さらに、中絶を無くすため、体内での妊娠はできないようになっていった。
自意識もない無力な胎児が死ぬこともなくなった。
命の入口は、いつしか医療の管理下に置かれた。
すると、十分に準備が出来た家庭にのみ子供が出来るようになった。
人口の爆発的増加も食い止められ、育児放棄も激減した。
遺伝子が優秀なだけでなく、愛情で育まれた人間だけが増えるようになった。
それがひいては、世界全体で起きていた愚かな行為も、激減していったのだった。
博士は一息つく。
目に見える悲劇は減った。社会は穏やかになった。
それでも、博士の胸の奥には、言葉にならない重さが残っていた。
愚かさが減ったのは、命の価値が上がったからなのか。
それとも、命の入口が整えられたことで、命が“扱いやすく”なったからなのか。
博士は答えを出せないまま、次の研究に手を伸ばした。
命を終わらせる権利はない。その前提に立たなければ、自分自身の命の重さすら軽くなってしまうからである。
それがたとえ人間以外であっても、重く受け止めていくべきではないだろうか。
ただ、命を守ろうとする善意が、命の入口を「管理」へ寄せていくとき、別の問いが生まれる。
愚かさを減らすために、自由を削ってよいのか。
自由を削った結果として減った愚かさを、果たして“救い”と呼べるのか。
命を守るとは、命を増やすことでも、整えることでもない。
命を重く受け止め続けること――その難しさ自体を、忘れないことである。