落とすのは靴下じゃない。自分の感覚だ――裏思考遊戯。
朝。
A男は時間に追われていた。時計を見るたび、胸が焦げる。
スーツ、ネクタイ、鞄、鍵、スマホ。
全部そろえたつもりで、引き出しから靴下をつかんだ。
……一枚。
片方だけ。
A男は固まった。
昨日、コインランドリーでまとめて洗って乾燥までかけた。
たしかに、あの場で畳んで袋に入れた。
入れた、はずだ。
靴下はある。片方だけ。
相棒がいない。
A男は床にしゃがみ込み、洗濯袋をひっくり返した。
ハンカチ、Tシャツ、下着、タオル。
出てくるのに、出てこない。
「……なんで、片方だけ消えるんだよ」
そこでふっと、嫌な静けさが来た。
靴下の問題じゃない。
“そういう抜け”が最近増えている感覚が、後ろから襲ってくる。
キッチンからB子が顔を出した。
「どうしたの」
A男は靴下を掲げた。
「片方ない。昨日ランドリーで……取り忘れたかもしれない」
B子はため息をついた。怒ってはいない。
ただ、分かっている顔だ。
「たぶん乾燥機。奥に張り付いてるやつ。
取りに行く?」
A男は頷きかけて、止まった。
今から取りに行ったら遅刻する。
取りに行かなかったら、一日中モヤる。
その“二択”でさえ、疲れる。
A男は結局、別の靴下を探し出して履いた。
色も丈も微妙に違うやつ。
鏡を見ると、自分が雑になっていくのが見えた。
玄関で靴を履いた瞬間、B子が言った。
「最近さ、見落とし増えてない?」
A男は返事ができなかった。
図星だからじゃない。
図星を“気にしてないふり”する癖が、もう自動化していたからだ。
通勤中、A男は頭の中で同じ場面を何度も再生した。
乾燥機の前。取り出す手。畳む動き。袋に入れる動作。
思い出そうとしても、映像がぼやけている。
記憶がない。
正確には、記憶に残るほど意識していない。
そこで、もう一つ思い出した。
そういえば……前にもあった。
似ている靴下を、左右で履き違えていた。
ほとんど同じ。色味も柄も同系統。
なのに、よく見ると違う。
その時も思った。
「なんで気づかなかった?」
答えは簡単だった。
見ていないからだ。
“見たつもり”で通過しているからだ。
A男は電車の窓に映る自分を見た。
目がどこにも焦点を結んでいない。
体は前に進んでいるのに、心は置いていかれている。
夕方。
仕事を終えたA男は、家へ直帰せず、公園を歩いた。
ベンチに座ってスマホを伏せると、静かすぎて逆に不安が湧いた。
成果、評価、納期、返信。
重要なものだけを追いかけてきた。
その結果、重要なものの定義が狂ってきた。
最初に削られるのは、いつも同じだ。
疲れ。
違和感。
小さな嫌悪感。
「もう無理」という声。
そして、戻ってきた時のB子の顔。
家に帰る。
B子が「おかえり」と言う。
A男は、ちゃんと目を見て「ただいま」と返した。
それだけで、胸が少し痛んだ。
最近の自分が、どれだけ雑だったかが分かるからだ。
食卓でA男は言った。
「靴下、たぶん乾燥機に残した。
でもさ……靴下より怖い。俺、最近ずっと見落としてる」
B子は優しくも冷たくもない声で言った。
「見落とすのは誰でもある。
でも怖いのは、見落としに慣れること」
A男は黙った。
慣れる、という言葉が刺さった。
B子は続けた。
「靴下なら取りに行けば戻る。
でも生活の見落としは、戻れないまま増える。
気づいた時には、穴が大きくなってる」
A男は頷いた。
あの“床の割れ目”みたいに。
小さいうちなら塞げたのに、放置すると臭うやつ。
A男は言った。
「じゃあ、明日から一つだけやる。
毎日“靴下レベル”の見落としを、拾う」
B子は小さく笑った。
「全部は無理。
でも一個なら拾える」
A男はその夜、メモに一行だけ書いた。
「今、俺は何を無視してる?」
答えが出なくてもいい。
問いがあるだけで、視界は少し戻る。
さて。
あなたが“片方だけなくなった靴下”みたいに、見落としているものは何だろう。
それは、どこかに置き忘れたのか。
それとも、最初から見ていなかったのか。
そのまま走り続ける?
それとも、今日ひとつだけ拾う?
裏側を言う。
靴下は小さい。だから笑える。
でも笑えるうちはまだいい。
本当に危ないのは、靴下を落とすことじゃない。
落としているのに、何も感じなくなることだ。
忙しさは便利だ。
忙しさは、感じないための理由になる。
忙しさは、心の違和感を「後で」に追いやる。
そして「後で」は、たいてい来ない。
ランドリーで片方が消えるのは、よくある。
似ている靴下を履き違えるのも、よくある。
でもそれが続くとき、問題は靴下じゃない。
視界が狭くなっている。
感覚が鈍っている。
“見たつもり”で人生を通過している。
だから、派手な解決はいらない。
小さくていい。毎日一個だけ。
体の疲れを、数字より先に見る
違和感を、正しさより先に拾う
目の前の人の顔を、画面より先に見る
靴下は、どこかに引っかかっている。
あなたの感覚も、たぶんまだそこにある。
拾えるうちに、拾う。
それが、いちばん現実的な“修正”だ。