検閲を憎み、自由を愛したはずの者が、自由を武器に変えていく。自由をめぐる思考遊戯。
A子は単純だった。
だが、大勢の人間に崇拝されていた。
A子が検閲を嫌い、言論の自由を支持していたからだ。
「直接的でなければ法に触れない。だから自由でいい」
A子はそう信じ、その信念のままに、インターネット上に“自由に発言できる場所”を作った。
そこは匿名性が高かった。
最初は活発な議論が起きた。次に、揶揄が増えた。やがて嘲笑が常識になった。
そしていつしか、過激さが価値になった。
言葉は、伝えるためではなく、刺すために選ばれるようになった。
言葉の暴力により、多くの企業が損害を被った。
炎上は娯楽になり、拡散は正義になり、謝罪は餌になった。
何より、傷ついた人々の中には、耐えきれず命を落としていく者まで出た。
だがA子は気にも留めなかった。
自分は発言したのではない。発言の場を提供しただけだ。
間接的であれ直接的であれ、何人が死のうが「知ったことではない」。
A子はそう考えていた。
むしろ、称賛がそれを強化した。
「これが真の自由だ」
「誰も黙らせるな」
信望者はA子を英雄のように祭り上げた。
崇拝者が出ると、次は権力者が迎合していく。
数字が集まり、熱狂が集まり、影響力が集まる。
A子はうなぎ登りに大きな力を手に入れていった。
もちろんA子は、信望者たちから非難されないように振る舞った。
「利益なんか出てない」と口にし、清廉さを演じた。
さらに、自分が批判される前に他者を批判し、「自分は違う」という印象を先に配る。
そういう巧妙なトリックに長けていた。
「おかしいな」と感じる者もいた。
だが、その違和感は炎上の熱に飲まれ、深く考える前に笑いに変えられた。
A子は「バレなければ問題ない」と信じていた。
そして、バレないようにすることに関しては天下一品だった。
嘘の発言も、集団を煽りコントロールすることも、A子は自由だと主張した。
怒りや憎しみ、不信感といった負の感情を増幅させる。
諦めや退化を「現実的」と呼び、偽りの希望で包む。
つぶしあいを促し、互いの力を奪わせる。
経験が浅い者や余裕のない弱い者をターゲットに取り込む。
強い者には上手に迎合し、敵に回さない。
A子の権力を脅かす者は巧みに悪として位置づけ、信望者に攻撃させ、排除する。
A子は言った。
「法律に触れさえしなければ、何やってもいいわ。触れても、法の目をくぐればいいし」
多くの信望者を味方につけたA子は、今日もご機嫌良くほくそ笑んでいた。
言葉が本来、伝達のためにあるのなら、そして自由が権利の主張であるのなら、公の場で不特定多数に発信する時は慎重になるべきである。言葉は単独で存在するのではなく、人と人との関係性の上に成り立っているからだ。
「何でもあり」になれば、自由は崩壊する。
嘘がまかり通れば信頼関係が壊れ、やがて何も信じられなくなる。結果として残るのは、言葉の力ではなく、言葉を武器にできる者の力である。
無責任な自由は、自由を守らない。
自由を語る者ほど、自由を壊す側に回れる。
だからこそ、責任ある言論の自由について考えることもまた自由である――という皮肉を、忘れないために。