数字で割り切れるはずの選択が、別の秤で決まっていく。選択をめぐる思考遊戯。
Aは躊躇していた。
細菌を搭載したミサイルが誤作動で発射してしまった。
Aはそれを止める任務についている。
止めるには迎撃し、撃ち落とすしかない。
だが撃ち落とせば、細菌が空に散り、その結果、百万人単位の死者が出る。
止めなければ、ミサイルは遠く人里離れた研究所に落ちる。
そこにいるのは一人だけだ。
止めなければ、犠牲者は一人で済む。
もはや一刻の猶予も許されない。
悩んでいる時間など、ない。
Aの思考は、その瞬間、異様に速く回り始めた。
数字の上では簡単だ。
犠牲が一人で済むなら、それを選ぶべきだ。
だが同時に、別の言葉が頭をよぎる。
「一人の命は地球より重い」
もし本当にそうなら、重さで言えば、百万人の命も一人の命も同じである。
同じ重さなら、選ぶ理由はどこにある。
いや、同じ重さだからこそ、選んだ瞬間に、何かが壊れる。
そのとき、さらに厄介な情報が胸を刺した。
研究所にいるその一人は研究者であり、今進めている研究が完成すれば、一千万人単位の人間を救う可能性が高い。
しかも、その研究はまだその研究者の頭の中にある。
記録も共有も不十分で、代替は効かない。引き継ぎもできない。
Aは、数字の計算が、別の計算に切り替わるのを感じた。
「一人」ではない。
「未来の一千万人」かもしれない。
だがその未来は、確定ではない。
希望であり、予測であり、まだ証明されていない。
一方で、迎撃すれば百万人が死ぬ。
それは確定だ。
ここに、確定と不確定の秤が生まれる。
Aが決めかねていたとき、新たな司令が届いた。
「ミサイルは撃ち落とさなくて良い。繰り返す。ミサイルは撃ち落とすな」
Aは命令に従った。
従うしかなかった。
帰還後、Aは理由を聞いた。
研究者が死んでも、その研究の内容を知る者は少なく、数千万人を救えるかどうかは、まだ世間に認知されていない。
一方で、百万人が死ぬことはすぐにニュースになる。
社会は即座に炎上し、組織は即座に非難される。
つまり、その判断を決めた材料は――
「世間体」だった。
Aは黙って頷いた。
頷くしかなかった。
そして同時に、胸の奥で、何かが冷たく固まっていくのを感じた。
世間体だけの理由で、無実の人を助けるために、無実の人を犠牲にすることは許されるのだろうか。
たとえば「無実の人を助けるため」という名目で、別の無実の人に暴力を加え、口を割らせるような行為があるとする。罪のない人たちを救うために罪を犯すという論理は、救われる側にも適用され得る。正義の名で許された手段は、次の正義の名でも使われるからである。
仮にそれが一般に言われるテロであっても、同じ主張が成立してしまうかもしれない。
つまり、非道徳的行為を止めるためなら、非道徳行為は許されるのかというジレンマである。
ここまで極端でなくとも、難しい選択は頻繁に起きている。
そしてそれは、正しさの基準ではなく、都合や見栄や恐怖といった理不尽な基準で選ばれることも少なくない。
選択とは、ときに命よりも先に、評判を守るために行われるのかもしれない。