ついに人は死ななくなった。けれど「終わり」が消えた世界で、残ったのは自由ではなく退屈だった――不老不死をめぐる小さな思考遊戯。
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遂に、不老不死が一般化された。
イモーテルの研究が実を結び、社会に普及したのだ。
死は“事故”になり、老いは“過去の概念”になった。
そして、ひとつだけ新しい常識が生まれた。
「いつ終えるか」は個人の自由である。
そのための退出手続きは制度化され、厳格に管理された。
誰にも強制されない。誰にも邪魔されない。
だが、誰にも答えは与えられない。
人によって満足の閾値は違った。
二百年で人生に飽きる者もいれば、五百年を越えても「まだ足りない」と言う者もいた。
苦しみも、コントロールできるようになっていた。
痛みは最小化され、不安も調整できた。
だから自殺者は減った。
減ったというより、「自殺」という言葉自体が古語になっていった。
死なないなら、増える必要もない。
子どもを作る必然性は薄れ、人口は固定されていった。
若返りの技術が進んだため、街は“歳を取った若者”で溢れた。
外見からは、誰が三十歳で、誰が三百歳か分からない。
そんな世界で、最も価値を持ったものは何か。
資産でも、地位でも、名誉でもない。
退屈を消す力だった。
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飽きない工夫を凝らした発明品が、次々と出てきた。
味覚を更新する食、視覚を刷新する映像、触覚を再設計する衣服。
だが、刺激は慣れる。慣れは眠る。眠りは退屈になる。
刺激に慣れると感度が落ち、感度が落ちると何をしても薄くなり、薄さは退屈になる。
そこで開発されたのは、脳に一時的な苦痛と快楽を交互に与える装置だった。
その刺激の最中、人は退屈を感じなくて済む。
退屈が消えた。
歓声が増えた。
利用者は増えた。
だが、新たな問題が生じた。
刺激を止めた途端、とてつもない虚しさが襲ってくるのだ。
快楽のあとに残るのは、満足ではなく空洞だった。
痛みのあとに残るのは、成長ではなく欠乏感だった。
「次の刺激が必要だ」
そう言う声が、街のあちこちから聞こえ始めた。
そこで求められたのは、刺激ではなく――
充実感だった。
外から与えられる何かではなく、
自分の中から生まれる何か。
各人が自ら創作できる製品。
自分で物語を組み、選び、壊し、作り直せる場所。
「私は生きた」と言える形。
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だが現実世界には、資源と空間に限りがある。
永遠の時間に、有限の舞台。
それは矛盾だった。
そこで世界は、接続した。
バーチャルリアリティへ。
現実では建てられない都市を作り、
現実では尽きる資源を無限化し、
現実では終わる物語を延命した。
次々と与えられる物語。
より進化したゲーム。
死なない身体で、何度でも生まれ変われる人生。
人類の多くは、そこへ移った。
数百年をかけて、人生を謳歌した。
退屈は消えた。
虚しさは薄まった。
そして、人々は気づかないようにしていた。
「生きる理由」を外部委託していることに。
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永遠の命は、ないものねだりなのかもしれない。
だが、もし不老不死が実現できる地点まで研究が進むなら、問われるのは寿命ではなく、意味だ。
退屈を消す技術は作れても、充実を“注入”することは難しい。
刺激は与えられるが、納得は与えられない。
物語は用意できても、「私の物語だ」と思える感覚は、本人の内側にしか生まれない。
限られた時間にも苦しみがある。
永遠の時間にも苦しみがある。
違うのは、苦しみの種類だけだ。
では、あなたにとって「生きる」は何だろう。
終わりがあるから意味があるのか。
終わりがなくても意味を作れるのか。
永遠の命が手に入ったとしても、欲しいのは命そのものではなく、命に納得できる理由なのかもしれない。