再現性には、確かにメリットがあります。
同じ手順を踏めば、同じ結果に近づける。
属人的な失敗を減らし、初心者でも一定の品質に届きやすくする。
誰かの経験を「共有できる形」に変えるのは、優しさでもあります。
けれど、その再現性が“思想”になった瞬間、空気が変わります。
再現性を高めることが絶対になり、
人が「工程」になり、
感情が「ノイズ」になり、
個性が「ムラ」扱いされる。
そうして出来上がるのは、ロボット型人間の量産です。
「誰にでも簡単にできる」
この言葉は、希望にも聞こえます。
救いにも見えます。
でも同時に、こういう意味も含んでしまう。
あなたにもできるということは、あなたでなくてもいい――と。
この矛盾は、別の場面でも顔を出します。
「こうすれば稼げる」というノウハウが、世の中には山ほどある。
「投資はこうすれば勝てる」とアドバイスする人もいる。
それを見て、ふと素朴な疑問が湧くことがある。
だったら、自分でやるのでは? と。
もちろん、理由は色々考えられます。
「教える方が向いている」こともある。
「規模が大きくなると、教える方が効率がいい」こともある。
「受け取る側の状況によって結果が変わる」こともある。
ただ、それでも残る違和感があります。
再現性を売る言葉が強いほど、“結果の責任”が静かに買い手の側へ移っていくことがあるからです。
やり方は渡す。でも、うまくいかなかった時の痛みは、受け取った側が抱える。
そして、やり方が「誰にでもできる」と言われるほど、
うまくいかなかった人は「自分のせいだ」と思いやすくなる。
再現性は入口として強い。
でも、再現性が思想になると、人が“交換可能な部品”として扱われやすくなる。
人を人として見るより、「代替できるかどうか」で見る目が育ってしまう。
だからこそ、私は思います。
再現性を否定するのではなく、再現性を“道具”に戻す。
そして、奪われたものを取り戻す。
「私にしかできない」という特権です。
それは派手な才能の話ではないのかもしれません。
同じ手順でも、同じ言葉でも、
そこに乗る温度、目の向け方、責任の持ち方、相手への敬意――
その微差は、誰にもコピーできない。
再現性は、入口としては強い。
けれど最後に価値を生むのは、再現性の外にある、ほんの少しの“あなた”です。
だから私は、こう決めたい。
同じようにできることを、まずは丁寧に身につける。
そのうえで、最後の一滴だけは、私の意志で注ぐ。
それが、機械に近づく時代に、人が人であり続けるための、静かな反抗なのだと思うのです。
そして私は、こう締めくくりたい。
私は、再現できる自分ではなく、再現されない自分を取り戻したい。