筋肉づくりは、分かりやすい。
痛みに耐えながら、淡々と積み重ねていく。
その蓄積は、乗り越えた経験として残り、外観の変化は、静かな自信にもつながる。
だからこそ、一度はじめると、やめづらい。
休めば、すぐに落ちていく。
そして落ちたぶんは、あっさりと 贅肉に形を変える。
胸の厚みが増えていく感覚は、筋肉なら「胸板が厚い」で、確かにかっこいい。
でも、それが贅肉に変わってしまうと、冗談みたいに、まるで たれた巨乳のように“垂れていく” 実感になる。
笑えるようで笑えない。
だからまた焦って、戻そうとする。
いつの間にか、
「やりたい」ではなく、やらなければならない。
「整えたい」ではなく、やるしかない。
そうやって私は、少しずつ 筋肉の奴隷 になっていく。
結局これは、肉を肉に変える作業だ。
けれど、元々の肉は、どこから来ているのか。
鳥たちがいる。
私の虚栄心を満たすために犠牲になっているのか。
それとも、サービスを提供して、お金になれば、それでいいのか。
そんな問いが、胸の奥に残る。
私たちのエネルギーは、どこから来るのだろう。
何を犠牲にして成り立っているのだろう。
そして私は、そのエネルギーを、どう使うべきなのだろう。
ここで、もう一度、現代の環境を考えてみる。
そもそも、今の時代に、どれほどの筋肉が必要なのだろうか。
デスクワークが増え、ネットにつながる時間が伸びたぶん、
身体が毎日どれだけ支えてくれているかを、私たちは忘れやすい。
だからこそ、筋肉を「増やす」よりも、まずは 衰えないための維持。
身体への感謝として、適度に動き続ける努力は必要だと思う。
けれど、もしその増量が 何かの犠牲の上 に成り立っているのなら、
“必要以上” を追いかけるほど、私は慎重になりたい。
強さを得るために、鈍くなるのは嫌だ。
積み重ねるほど、見えなくなるのも嫌だ。
私が欲しいのは、筋肉そのものではない。
身体を大切に扱うこと。
そして、その身体を支えている世界を、軽んじないこと。
その一口を、今日も噛み締める。
そして私は、誤魔化さずに問う。
それは本当に“必要”だったのか。
それとも、ただ“欲しかった”だけなのか。