「正義」「平和」「思いやり」
こういう言葉に、あえて背を向けたらどうなるだろう――。
ちょっと極端な思考実験として、
「正義も平和も嫌い。縛られたくない。だから、好きなように生きる」
という前提で世界を組み立ててみる。
そこでは、ただ一つのルールだけが残ります。
なんでも自由。
戦争も、暴力も、強盗も、殺人も、すべて「本人の自由」。
ルールを「守る人」が損をする世界。
ルールを「破る人」ほど得をする世界。
そんな場所で、ほんとうに起きるのは――
ホラー映画の中でしか見ないような現実、なのかもしれません。
試しに、頭の中でこんな場面を想像してみます。
誰かが堂々と、
「私は善人です」
と言ったとき、多くの反応はおそらくこうなりがちです。
「自惚れじゃない?」
「偽善者っぽい」
「なんか胡散臭い」
「裏で何かやってそう」
逆に、誰かが少しふざけながら、
「いや、俺なんて悪人だからさ」
と言うと、
「正直でいいね」
「隠しごとがなさそう」
「実はいいところもありそう」
といった、妙に肯定的なムードで受け取られやすい。
もちろん、これはあくまで思考実験です。
でも、どこか心当たりのある人も多いのではないでしょうか。
「善人」を名乗ることは笑われやすく、
「悪人」を名乗ることは、むしろ“素直さ”としてウケてしまう。
そうなると、本気で真面目に生きようとする人ほど、肩身が狭くなり、悪ふざけに走る人ほど場の中心を取りやすくなる。
自由が高まるほど、その傾向が強くなる――そんなねじれを感じています。
もう一つ、よく聞く感覚があります。
「優しすぎると損をする」
「非情になりきれないと、悪には勝てない」
たしかに、
・人を騙すことに一切ためらいがない人
・平気で裏切れる人
のほうが、短期的には“強く”見える場面はあります。
でも、その「強さ」は、
悪のゲームのルールに、自分も乗り込んでしまうことで得ている強さ
なのかもしれません。
ホラー映画の中で、
・人を追い詰める側
・人を傷つける側
のほうが“主導権”を握っているように見えるのと、どこか似ています。
もし現実の世界でも、
「悪のルールにどこまで乗れるか」が強さの基準になってしまったら、
それはもう、ホラー映画がゆっくりと現実に染み出してくるようなものです。
インターネットは、とても「自由度の高い」場所です。
匿名で発言できる
遠くの誰かに、一瞬で届く
過激な言葉ほど拡散されやすい
この条件が揃うと、
どうしても「ホラー寄り」のコンテンツが目立ちやすくなります。
誰かの失敗や炎上を、みんなで観察する
人の不幸や恐怖を、娯楽として消費する
現実の苦しさから逃げるために、より刺激の強いものを求め続ける
それが習慣になっていくと、
ホラー映画の“非日常”だったはずの世界観が、少しずつ“日常”のほうへと滲み出してくる。
画面越しに見ているつもりでも、
自分の心の中に、その「視線」と「基準」が刻み込まれていく。
怖いもの、残酷なもの、悪意あるものに慣れてしまう。
それを「普通」として受け止め始めてしまう。
自由の名のもとに、
「何をしてもいい」側の声だけが肥大していくとき、
現実の世界は、ゆっくりとホラーの舞台に近づいていくのだと思います。
では、どうしたらいいのか。
ここで「自由なんていらない」「全部禁止にすればいい」と言ってしまうと、
それはそれで、息の詰まる、別の意味でのホラーになります。
本当に守りたいのは、
自分で考え、選び、責任を引き受ける自由
なのだと思います。
そのために、あえて手放さないといけない「自由」もあります。
好き勝手に人を傷つけていい自由
嘘や煽りで他人を動かす自由
「バレなきゃ何をしてもいい」という自由
これらは、短期的には甘く見えても、
長期的には、自分の心と世界をじわじわと壊していく自由です。
自由の代償としてホラーを受け入れてしまうのか、
それとも、自分の中に一本の線を引くことで、自由を長く使える形に整えていくのか。
選ぶのは、やっぱり一人ひとりの側なのだと思います。
ここまで書いてきましたが、
別に「善人になりましょう」と説教をしたいわけではありません。
人は誰でも、時々は意地悪になる
誰かの不幸を見て、ホッとしてしまう瞬間もある
過激なニュースに、ついクリックしてしまうこともある
そういう揺らぎは、人間である限り、なくならないはずです。
大事なのは、
「それを“普通”として受け入れ続けるのか」
「あ、今ちょっとホラー寄りに傾いたな」と気づいて、少しだけ戻るのか
その小さな差かもしれません。
自分が傷つく側になったとき、どんな言葉に救われるだろう
自分の大切な人が傷つけられていたら、どんな態度を取ってほしいだろう
そのイメージを手放さないだけでも、
自由の代償としてホラーを“現実に定着させない”ための、小さな抑止力になるはずです。
自由が広がること自体は、きっと悪いことではありません。
問題は、
「その自由を、何の方向に使うのか」
「どんな現実を“当たり前”にしていくのか」
という、私たち一人ひとりの選択です。
ホラー映画のような現実にも、
静かで穏やかな現実にも、
どちらにも、人は慣れてしまう生き物だからこそ。
見ないふりをするのではなく
いたずらに煽るのでもなく
「これはホラーだ」とちゃんと認識したうえで、
自分の手の届く範囲だけでも、少しずつ違う選択をしていく。
自由の代償としてホラーを受け入れるのか、
それとも、自由の使い方を変えることで、
少しずつ「別の物語」に書き換えていくのか。
その分かれ道は、
いつも、今日のとても小さな選択の中に
ひっそりと紛れ込んでいるのかもしれません。