「正しい」だけでは、生きられない。
でも、「生きる」だけでは、正しくいられない。
合理性が人を救い、同時に人を追い詰める――そんな小さな思考遊戯。
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女性が自殺し、遺体が熊に食べられた――そんなニュースが流れた。
その三ヶ月前。
A子は、悩みに悩み抜いていた。
悩みの中心にあったのは、奇妙なほど単純な言葉だった。
「私は、食べられたくない」
その言葉を本気で思った瞬間、A子は何も食べられなくなった。
肉はもちろん、魚も無理だった。植物でさえ、喉を通らない。
「奪う」と「奪われる」が、同じ一本の線に見えてしまったからだ。
たとえ相手が声を上げなくても、
たとえこちらが生きるためだとしても、
「食べる」という行為が、どこかで誰かの“終わり”につながっている気がした。
さらにA子は、こうも考えてしまう。
食べられても影響のないもの――たとえば、取られても死なないもの。
それでも「奪われた側の気持ち」を想像してしまう。
「もし、私が同じことをされたら耐えられない」
そして、思考は最後に必ずこう反転する。
「相手の喜びが、自分の喜びだと思える人もいるかもしれない」
「でも、それも都合のいい解釈でしかないかもしれない」
A子は、答えの出ない問いを毎日繰り返した。
摂取できたわずかな栄養は、悩むことに使い果たされ、体は衰えていった。
――何ひとつ進まない。
正しさだけが増えていく。
A子は、ようやく気づいた。
「この状態じゃ、私は何の役にも立てない」
A子は、考えを改めた。
気にせず食べられるようになった。
動けるようになった。
眠れるようになった。
そして、少しずつ答えが浮かぶようになった。
A子は、ひとつの結論にたどり着いた。
「何かをするには、犠牲はつきものだ」
それは冷たく聞こえる言葉だったが、A子にとっては救いだった。
苦悩を止めるための、合理的な鍵だった。
そう考えていたある日、A子は山に登ることにした。
その山は熊が出没することで有名だった。
最近は人里まで降りてくる――ニュースで見たばかりだった。
山道の奥で、A子は熊を見た。
痩せている。
腹をすかせているのが、見てわかる。
A子の頭の中で、あの言葉が静かに立ち上がった。
「犠牲はつきもの」
次の瞬間、A子は思った。
「私が生きるために、誰かを犠牲にする」
「なら――」
「誰かが生きるために、私が犠牲になることも、同じはずだ」
A子は逃げなかった。
恐怖はあった。
けれどそれ以上に、思考が静かだった。
A子は、熊に近づいた。
そして、ニュースになった。
―――――
合理性は、便利だ。
迷いを切り捨て、今日を生きるための“道具”になる。
けれど合理性には、もうひとつの顔がある。
「納得するための言葉」を量産できてしまうという顔だ。
「犠牲はつきもの」
この言葉は、人を動かす。
同時に、人を壊すこともある。
A子は“食べること”の罪悪感から逃れるために、
“食べられること”を同じ線の上に置いた。
それは、ある種の一貫性だ。
けれど、その一貫性は――生の側に立っていただろうか。
合理性とは、命を守るためのものか。
それとも、命を手放すための正当化か。
彼女は“正しさ”として差し出した。世界は“空腹”として受け取った。
あなたが手放したいのは、罪悪感ですか。
それとも、罪悪感を抱ける自分自身ですか。