願いは叶っていないのに、なぜか救われた気がする。そこに名前が付いた瞬間、世界はどちらにでも転ぶ――信仰をめぐる小さな思考遊戯。
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Aは、お金持ちになりたかった。
あらゆることを試した。
努力もした。工夫もした。学びもした。
それでも、お金持ちにはなれなかった。
最後の手段として、Aは藁にもすがる思いで神に祈ることにした。
――だが、一向に変わらない。
Aは格言を思い出した。
「欲しければ、まず与えよ」
それ以来、祈るたびに五円を賽銭箱に入れた。
「宝くじが当選しますように」
当たらない。
Aは思った。
「五円で六億円は、割に合わないのか」
そこで千円を入れるようにした。
けれど続ければ、懐が先に尽きる。
「卑しい願いがいけないのか?」
Aは願いを変えた。
お金ではなく、幸せを願った。
それでも、幸せな出来事は起きる気配がない。
Aは神だけでなく、様々な宗教にも入会した。
それでも同じだった。
「願いが抽象的すぎるのかもしれない」
そう思って、Aは検証しやすい願いに切り替えた。
「天気予報では明日は雨となっています。明日、晴れますように」
――雨だった。
Aは嫌気が差してきた。
だが、ここまで来た思いが強くて引き返せない。
「自然をどうこうしようとしたのが、うぬぼれだったのか」
Aはさらに小さく、さらに具体的な願いにした。
「明日、一円拾いますように」
全身全霊、心を込めて願った。
――拾えなかった。
Aは思った。
「祈るだけでは駄目だ」
Aは行動した。努力もした。
ところが、努力に応じた結果どころか、それ以下のものしか手に入らなかった。
「ここまで来たら……」
Aはふと、別の可能性に気づいた。
「お願いばかりで、俺の考えが汚れているからなのかもしれない」
「……もう、お願いしない」
その瞬間、すーっと胸の内が軽くなった気がした。
Aは宗教を辞めた。
すると、嫌なことが激減した。
そして、思ってもみない嬉しいことが相次いで起きるようになった。
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Aは混乱した。
「祈っていたのは、一体何だったんだ?」
Aはその道の権威あるBに尋ねた。
するとBは、穏やかに言った。
「それは良かった。それも救いなのです。」
間を置いて、さらに言った。
「叶わなかったことも、救いの形なのです。」
Aは反射的に言い返した。
「それなら、存在そのものが意味ないじゃないか」
Bは静かに笑った。
「頭で考えるから混乱するのです」
Aは“理解した気になった”。
理性を手放すことにした。
Aは、ある宗教を素直に信じ、教えを実行した。
確かにAは幸せになれた。
Aが教えを広めると、信じる人が増えた。
幸せになったと思う人も増えた。
――だが、それ以上に、不幸な人が増えてしまった。
Aはようやく気づいた。
理性のない幸せな人間が増えるほど、相対的に不幸せな人も増える。
その差は、いつか“正しさ”の顔をして広がっていく。
理不尽なことがはびこる世の中になっていたのだった。
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理不尽で、不条理で、自分の力ではどうにもならないとき――
信仰は最も必要とされる。
ただし信仰には、強い性質がある。
解釈次第で、どんな結果も“救い”として回収できてしまうことだ。
叶えば救い。
叶わなくても救い。
やめても救い。
つまり、結果によって否定されにくい構造がある。
この構造は、人を支える。
けれど同時に、疑いから逃げる逃げ道にもなる。
そしてもうひとつ。
「救い」が“心の軽さ”として成立するほど、外側の現実は置き去りにされやすい。
個人が救われる一方で、社会のどこかで帳尻が合わされ、
理不尽が増えてしまうことがある。
だから問われるのは、信仰の有無ではなく、たぶんここだ。
その救いは、誰かを救うためのものか。
それとも、誰かを黙らせるためのものか。
あなたが欲しいのは、願いの成就ですか。
それとも、叶わなかった現実と共に生きるための“救い”ですか。