悪魔の誘いに乗れば、楽です。
ショートカットができる。
面倒を省ける。
悩まなくていい。
極端に分かりやすく言えば、願いを叶える代わりに、魂や寿命を差し出すような取引。
「これだけ引き渡すのだから、これだけ受け取るのは当たり前だ」
そういう、等価交換です。
現実の世界も、似た構造でできています。
これと引き換えに、これを受け取る。
労働と賃金。商品と代金。時間と成果。
私たちは毎日、取引の中で生きています。
そして取引の中では、こんな言い聞かせが生まれやすい。
「少ないお金しかもらえないのなら、これくらいのサービスが妥当」
「レジで無愛想なのも仕方ない」
「忙しいんだから、丁寧にできないのも当然だ」
逆も同じです。
「お金を払っているんだから、してもらって当たり前」
「客なんだから、気を遣われて当然」
「自分は損をしたくない」
どちらも理屈としては正しい。
等価交換の世界では、それが筋です。
でも私はふと思うのです。
もし、その“外側”に価値があるとしたら?
たとえば、少ない対価の仕事なのに、そこで笑顔で対応してくれたら。
たとえば、当たり前にサービスを受けた側が、逆に「ありがとう」と言えたら。
その瞬間、空気が変わります。
等価交換の範囲では、何も起きないはずだった場所に、何かが生まれる。
誰かの心が少し軽くなる。
少し救われる。
「まだ捨てたもんじゃない」と思える。
私は、これを“希望を渡す”行為だと思っています。
希望は不思議です。
お金のように減るものではなく、むしろ増えやすい。
笑顔を渡された人は、次の場面で少し優しくできるかもしれない。
「ありがとう」と言われた人は、もう一度だけ丁寧にできるかもしれない。
そして、その小さな余白が、別の誰かの余白を生む。
価値が価値を生み、増幅していく。
何もないところから、じわじわと“あたたかさ”が増えていく。
ここで、もう一つだけ。
一見すると、等価交換ではないように見える場面もあります。
何もしないでお金が入ってくるように見える場面。
楽をするほどお金が入っているように見える場面。
そんな景色を繰り返し見ていると、少しでも費用対効果が良いものを求めたくなる。
コスパが良いものを探し始める。
それは、それで賢いやり方の一つかもしれません。
ただ、忘れてはならないこともあります。
等価交換は、あくまでも等価交換だということ。
表から見えないだけで、何かが差し出されている。
そして、その「見えない差し出し」に気付けないことが、悪魔の誘いの中でも、いちばん恐ろしい。
差し出しているものは、たとえば――
時間
心の余白
他者を思いやる真心
安心感
体力
集中力
信頼
それらは見えない。
見えないがゆえに、減っていることにも気づきにくい。
そして失ってからは、取り戻すことが難しい。
だから私は、等価交換を否定したいわけではありません。
損得が揃えば、成立はします。
でもそこから先は、基本的に増えない。
広がらない。
「当たり前」が積み上がるだけで、感動も、希望も、余白も生まれにくい。
悪魔の誘いは、たぶんここにあります。
「余計なことはするな」
「損をするな」
「自分の分は守れ」
「それ以上は、馬鹿を見る」
それは合理的で、分かりやすくて、確かに楽です。
でも、その楽さに慣れるほど、世界は冷えていく。
だから私は、あえて抗ってみたいと思うのです。
等価交換は、守る。
筋は通す。
約束は守る。
そのうえで、ほんの少しだけ、外側を添える。
笑顔をひとつ
「ありがとう」をひとつ
手間をひとつ
相手の人間性を、ひとつ
面倒かもしれない。
忙しい日ほど、難しいかもしれない。
でも、もし「悪魔の誘い」に抗える方法があるとすれば、
こんなに簡単なこともないのではないかと思うのです。
たったひとつの小さな上乗せが、
今日の誰かの心をほどき、
その人が次の誰かに、同じ上乗せを渡せるようにする。
そうやって世界は、静かに増幅していく。
私はその増幅を、信じてみたいのです。