目が覚めた瞬間、人は「現実だ」と思う。
けれど、その確信を支えているものは、案外ふわふわしている。そんな思考遊戯。
A子は目を覚ました。
「えっと……」
ぼんやりした頭で、何が起きたのかを辿ろうとする。
「……そうだ。事故にあったんだった」
高速道路。
運転中。
一瞬の居眠り。
ガードレール。
金属音。
息が止まる感覚。
――そして暗転。
A子は、胸を撫で下ろした。
「夢……だったのね」
ほっと安堵の息が漏れた。
ただ、胸の奥に引っかかりが残る。
「でも、まるで現実みたいな夢だった」
それどころか、事故に遭うまでの時間すべてが、
ずっと夢の中だったような感覚すらあった。
だが気にしても仕方ない。
A子はいつもの日常に戻った。
――数年が経った、ある日のこと。
また、同じ夢を見た。
同じ高速道路。
同じ瞬間。
同じ暗転。
そしてA子は、ベッドで目を覚ました。
「……また?」
数年前の体験が蘇り、A子は一瞬、現実と夢の境界を見失いそうになった。
それでも、ここに自分がいる。
呼吸がある。
手足がある。
目が開く。
痛みも、冷たさも、確かに感じられる。
「変な夢だった」
そう言うしかなかった。
それから同じことが、忘れた頃に何度か繰り返された。
だが次第に間隔は短くなり、ついには――毎日になった。
目が覚めても、確信が残らない。
眠っても、安心がない。
「現実」が薄くなる。
そして、A子は発狂した。
その瞬間、どこからか声が聞こえた。
「エラーです。不明なエラーが生じました」
A子は、はっとして目を開けた。
そこは――水槽の中だった。
身体はない。
A子は脳だけの状態で、透明な液体に浮かんでいる。
周囲には管と光と機械音がある。
誰かの足音が遠くに響く。
A子は、驚きのあまり思考を固めた。
「……きっとまた夢よね」
すると、また声が聞こえた。
「バーチャルシステムにエラーが生じました。復旧を開始します。今しばらくお待ちください」
A子は目を閉じた。
閉じたつもりだった。
脳しかないのに、目を閉じるという動作が残っていることが、余計に怖かった。
しばらくすると、A子は目を覚ました。
「お目覚めですね」
そこには、監査官と呼ばれる人物がいた。
白い服。乾いた声。丁寧すぎる口調。
監査官は言った。
「少し混乱しておられると思いますので、説明しましょう」
監査官は続けた。
「A子さん、あなたは新しいバーチャルリアリティのゲーム機のテストに参加しておられました」
「ところが途中で、エラーが生じたのです」
「あなたのご協力のお陰で、原因を特定できました」
監査官は、事務的に端末を操作した。
「お礼のお金はお振込みとなります。ありがとうございました」
「あちらからお帰りください」
A子は、ようやく理解した。
理解したのに、心が追いつかない。
“現実”が戻ったはずなのに、現実は相変わらず頼りなかった。
それでもA子は家に帰った。
日常生活に戻った。
年を重ね、やがて寿命を全うした。
そして――息が止まった、その瞬間。
また声が聞こえた。
「今回の人生はいかがでしたか?」
「料金は一万円となります」
「次は、どのような人生を楽しまれますか?」
A子は返事をしようとして、気づいた。
“目が覚めた”と言える瞬間が、どこにもなかったことに。
人は直接的に何かをしなくても、喜怒哀楽を湧き上がらせられる。
映画やドラマに没入して涙を流し、
ネット上の言葉に救われたり傷ついたりもする。
とはいえ、それらは基本的に、目や耳から入った情報に過ぎない。
それでも十分に「現実らしさ」を感じることがある。
では、五感すべてが完全に再現されたらどうなるのだろう。
匂いも、痛みも、温度も、重力も。
心拍の上がり方さえ、完璧に。
仮に、今生きている現実がプログラムに制約された状態で、
そのプログラムから解き放たれて「目が覚めた」とする。
では――目が覚めた後の世界が、現実だという保証はどこにあるのだろうか。
私たちは、現実を確認する“最終的な術”を持たないのかもしれない。
それでも、現実だと思えれば現実になる。
その頼りなさこそが、もしかすると、いちばん現実なのかもしれない。