遠回りにも、意味はあるのかもしれない。失敗や気づきを、物語・歌・動画にしています。
目覚めると、自分はハエになっていた。
一方で、自分の身体は別の誰かに使われ、周囲はそれを本人だと疑わない。
同一性をめぐる小さな思考遊戯。
―――――
Aは、目を覚ました。
次の瞬間、声にならない悲鳴を上げた。
視界が異様に広い。
部屋の天井も、壁も、机の脚も、すべてが巨大に見える。
身体を動かそうとすると、細い脚がいくつも動いた。
背中が震え、透明な羽が小さく鳴った。
Aは、ハエになっていた。
最初は夢だと思った。
しかし、窓ガラスに映った自分の姿を見て、否定できなくなった。
そこにいたのは、どう見ても一匹のハエだった。
Aは必死に記憶をたどった。
「そうだ……幽体離脱の訓練をしていたんだ」
友人と二人で、半分冗談のように始めた実験だった。
本や動画を参考にして、意識だけを身体の外へ出す練習をしていた。
途中までは覚えている。
身体が重くなり、耳鳴りのようなものが響き、意識がふっと抜けるような感覚があった。
そのあと、何かがずれた。
Aは慌てて部屋の中を飛び回った。
自分の身体を探した。
すると、いた。
自分の身体が、鏡の前に立っていた。
だが、それはAではなかった。
Aの身体は、寝癖を直しながら、いつものAの服を着ていた。
スマホを手に取り、Aの声で誰かに返信していた。
画面には、友人からのメッセージが表示されている。
「昨日は大丈夫だった? 途中で寝てたけど」
Aの身体は、少し笑って返信した。
「大丈夫。ちょっと疲れてただけ」
Aは理解した。
一緒に幽体離脱を試していた友人が、Aの身体に入ってしまったのだ。
その友人は、Aのふりをしていた。
最初はぎこちなかった。
けれど、友人はAの話し方を知っていた。
家族への返事の癖も、よく使う言葉も、笑い方も知っていた。
何より、周囲はそれを疑わなかった。
Aの身体をしている。
Aの声で話している。
Aのスマホを持ち、Aの部屋にいて、Aとして生活している。
それだけで、周囲にとっては十分だった。
Aは必死に叫んだ。
「違う! それは俺じゃない!」
しかし、出てきたのは小さな羽音だけだった。
Aの身体は、その羽音をうるさそうに手で払った。
「なんだよ、このハエ」
その一言に、Aはぞっとした。
自分の身体から、自分がハエとして追い払われている。
身体を失った瞬間、自分が自分であることは、誰にも届かなくなっていた。
Aは、このままではいけないと思った。
誰かに伝えなければならない。
だが、家族に近づいても叩かれるだけだ。
友人に近づいても、ただの虫として追い払われるだけだろう。
そのとき、Aは近くの研究所のことを思い出した。
そこには、昆虫の行動を研究している博士がいた。
変わった虫の動きや知能について、たびたび新聞にも載っていた人物だ。
Aは、残された希望にすがるように研究所へ飛んだ。
窓の隙間から中へ入り、白衣を着た博士の前を何度も旋回した。
博士は最初、ただ手で払った。
「こら、どこから入った」
Aは逃げずに、机の上を円を描くように飛んだ。
右へ二回、左へ三回。
博士の顔の前で静止し、また机へ戻る。
博士の手が止まった。
「……妙な飛び方をするな」
Aは、机の上に置かれていた新聞を見つけた。
そこには、大きな見出しと細かな文字が並んでいた。
Aは必死に新聞の上へ降りた。
まず「た」の文字に止まった。
次に「す」。
それから「け」。
最後に「て」。
博士は目を細めた。
「た、す、け、て……?」
Aは嬉しさのあまり、机の上を飛び跳ねるように羽ばたいた。
博士の表情が変わった。
好奇心と警戒心が混ざった顔だった。
「まさか、文字が分かるのか」
博士はすぐに紙を用意し、五十音を書いた。
そして、ゆっくりと言った。
「お前は、何を助けてほしいんだい」
Aは、震える羽を必死に動かして、文字の上に止まり続けた。
わ
た
し
は
A
博士は声に出して読んだ。
「私はA……」
Aは続けた。
ゆ
う
た
い
り
だ
つ
と
も
だ
ち
が
か
ら
だ
に
い
る
博士は、途中で何度も眉をひそめた。
しかし、最後まで読み取った。
「なるほど。君はハエではなく、本来は人間のAで、幽体離脱の事故によってこの身体に入り、君の本来の身体には友人が入っている。そう言いたいわけだね」
Aは喜んで飛び回った。
伝わった。
ようやく伝わった。
ここまで理解してくれた博士なら、きっと何とかしてくれる。
Aはそう思った。
しかし、博士はすぐには動かなかった。
むしろ、机に肘をつき、じっとAを見つめた。
「興味深い。非常に興味深いよ」
Aは期待を込めて博士の前を飛んだ。
博士は静かに続けた。
「だが、ひとつ問題がある」
Aは羽音を止めるように、紙の上に降りた。
博士は言った。
「君がAの記憶を持っていることは、ある程度分かる。
君が人間らしい思考をしていることも、認めざるを得ない」
そして、少し間を置いた。
「しかし、それだけで君が本当にAだと、どう証明する?」
Aは動けなくなった。
博士は、さらに言った。
「向こうにいるAの身体には、顔がある。声がある。指紋がある。戸籍がある。家族も友人も、彼をAとして扱っている。
一方で、君にあるのは、Aだと主張する記憶と、この文字を追う行動だけだ」
Aは慌てて文字の上を動いた。
ひ
み
つ
を
い
え
る
博士はうなずいた。
「秘密を言える、か。たしかにそれは重要だ。だが、友人がその秘密を知っていた可能性は? 君自身が、何かの方法でAの記憶を持った別の存在である可能性は?」
Aは、紙の上で小さく震えた。
博士は冷たく言っているわけではなかった。
むしろ、真剣だった。
真剣だからこそ、残酷だった。
「君は、自分がAであることを疑っていない。
それは分かる。だが、私が知りたいのは別のことだ」
博士は、ハエになったAをまっすぐ見つめた。
「君が君であることを、君以外の誰が、何によって確かめられるのかね?」
Aは、返す文字を探した。
自分の名前。
自分の記憶。
自分だけが知っている出来事。
自分の好き嫌い。
自分の後悔。
自分の癖。
どれも、自分を証明してくれるはずだった。
けれど、それらがすべて「証明」ではなく、ただの「情報」だったとしたら。
Aは初めて、自分がハエになったことよりも恐ろしいものに気づいた。
自分が自分であることは、
自分にとっては疑いようがない。
しかし、それを他人に証明する方法は、
思っていたほど確かなものではなかった。
博士は、紙の上にもう一枚、白い紙を置いた。
「さあ、続けよう。
君は、何をもって自分をAだと証明する?」
Aは、白い紙の上でしばらく動けなかった。
窓の外では、Aの身体をした誰かが、
今日もAとして生きているかもしれない。
そして世界は、おそらく何の違和感もなく、
その人物をAとして受け入れ続けるのだった。
―――――
自分とは何か。
普段は、あまり深く考えなくても済んでいる。
名前があり、顔があり、身体があり、周囲の人が「その人」として扱ってくれるからだ。
けれど、その前提が崩れたとき、自己の証明は急に難しくなる。
身体が同じなら、本人なのか。
記憶が同じなら、本人なのか。
話し方や癖が同じなら、本人なのか。
周囲が本人だと認めれば、それで本人になるのか。
もちろん現実には、戸籍、指紋、顔認証、DNA、過去の記録など、本人確認のための仕組みはいくつもある。
だが、それらは多くの場合、「外側からその人を識別するための手段」であって、内側にある自己そのものを直接証明しているわけではない。
久しぶりに会った知人を、すぐに本人だと分かることもあれば、分からないこともある。
声や顔が似ていれば、別人を本人だと思い込んでしまう可能性もある。
オレオレ詐欺のようなものが成立するのも、人が「本人らしさ」を、断片的な情報から補ってしまうからだろう。
さらに細胞の単位で見れば、人間の身体は少しずつ入れ替わり続けている。
昨日の自分と今日の自分は、完全に同じ物質でできているわけではない。
それでも私たちは、そこに連続性を見出し、「同じ自分」として扱っている。
だとすれば、自己とは固定されたものではなく、
身体、記憶、周囲の承認、そして時間の連続性が重なってできた、ひとつの仮の輪郭なのかもしれない。
自分にとって、自分は疑いようがない。
けれど、他人にとっての自分は、いつも何らかの証拠や振る舞いによって組み立てられている。
では、その証拠がすべて別の誰かに奪われたとき、
それでも「私は私だ」と言える根拠は、どこに残るのだろうか。
同じ自分は、本当に存在しているのか。
それとも私たちは、ただ昨日から続いているように見える自分を、今日も自分と呼んでいるだけなのか。
本人確認の紙一枚では届かないところに、
自己という不思議なものは、今も静かに揺れているのかもしれない。
名前も、声も、姿さえも作れてしまう時代。
だからこそ、誰かを軽く扱わず、秘密を守り合うことが、
その人をその人として覚えている証になるのかもしれません。
そんな想いを込めた歌です。
いつものように 合わせた笑顔
今日も誰かの 正解の中で息をしてる
名前を呼ばれて 振り向くけれど
本当の心は 置き去りにされたまま
声も 顔も 言葉さえも
誰かが簡単に 作れてしまう時代で
そっと預けた 小さな秘密が
軽く扱われるたび 私が透けていく
だから私は あなたを軽く扱わない
記号や形じゃなく あなたとして覚えていたい
言葉にできない 奥にある声を
誰にも渡さずに 守り合えること
それが私たちがここにいる たった一つの証明なの
「あなたらしい」と 言われるたびに
少しずつ輪郭が ぼやけて見えなくなる
本当の私を 映すものなんて
最初からどこにも 無かったのかもしれない
だけどあなたは わかってくれた
こぼれ落ちた痛みを 笑い話にしないで
沈黙の重さも そのまま拾い上げて
不器用な心を 隣で受け止めた
だから私は あなたを軽く扱わない
名前より深い場所で あなたを覚えていたい
世界中がもしも 見失ったとしても
私たちが本当の声に 気づいていられるなら
消えかけた私はまた 私に戻れるの
たった一人、あなたと守り合っていければ