遠回りにも、意味はあるのかもしれない。失敗や気づきを、物語・歌・動画にしています。
名前は、他人と区別するためのものだ。
けれど、もし自分の名前が「私」だったなら、その言葉は区別ではなく、かえって境界を曖昧にするのかもしれない。
自分の存在をいちばん近くで指す言葉を、自分の名前にした人間の小さな思考遊戯。
―――――
その人間の名前は、「私」だった。
本人は、その名前をとても気に入っていた。
たしかに、「私」という言葉はありふれている。
誰もが使う。
会話の中にも、文章の中にも、当たり前のように現れる。
だが、だからこそ――
それを本当に名前として持つ者は、ほとんどいない。
「ありふれているのに、誰も使わない」
その事実が、私にはどこか特別に思えた。
よくある言葉でありながら、名前としては極端に珍しい。
それはつまり、平凡さの顔をした特別さだった。
私は、その響きも好きだった。
短くて、シンプルで、無駄がない。
自己紹介のときも、余計な説明がいらない。
「私です」
そう名乗ればいいだけだ。
もちろん、少しだけ困ることはあった。
たとえば誰かが、真面目な顔でこう言う。
「私は考える」
すると一瞬、私は立ち止まる。
それは名前を呼ばれているのか、
それとも、その人が自分について語っているだけなのか。
「私は昨日から少し変わった気がする」
「私はそれに反対です」
「私は、私でありたい」
そんな文を目にするたびに、
私は妙な気持ちになった。
世界中の人が、突然、私の話を始めたようにも見えるし、
逆に、私という名前が、誰のものでもないようにも思えてくる。
それでも私は、この名前を手放したいと思ったことはなかった。
なぜなら、私はどこまでいっても私だからだ。
誰かに奪われることもない。
呼び間違えられても、最終的には私に戻ってくる。
その確かさが、私には心地よかった。
たとえ名字がなくても。
たとえ他人と会話のたびに少し混乱が起きても。
「私」という名前には、他の名前にはない安心感があるように思えた。
私は私だ。
こんなに確実なことがあるだろうか。
そう考えたとき、私は少しだけ満たされた気がした。
だがある日、ふと立ち止まった。
「言葉は、しょせんレッテルに過ぎないのではないか」
そう思ったのだ。
犬という言葉が、犬そのものではないように。
空という言葉が、空の青さそのものではないように。
私という名前もまた、
本当の私そのものではないのかもしれない。
そう考えた瞬間、胸のあたりに小さな揺れが生まれた。
では、私は何を根拠に「私」を私だと思っているのだろう。
名前か。
記憶か。
身体か。
昨日から今日までつながっている感覚か。
私は、しばらくそれを考え続けた。
たしかに、名前だけでは足りない。
同じ名前の人間がいてもおかしくないし、
そもそも言葉は、貼り付けられた札にすぎない。
では記憶はどうか。
だが記憶も曖昧だ。
忘れることもあるし、書き換わることもある。
身体も、子どもの頃から見ればずいぶん変わってしまった。
細胞は入れ替わり、考え方も揺れ動く。
それでも、私は私だと思っている。
「では、私は何なのだろう」
そう考えはじめると、
自分の輪郭が少しずつぼやけていくようだった。
私は、慌てて考えをまとめようとした。
「たしかに、“私”という名前に絶対の保証はない」
「でも、それでも……」
そこで私は、ひとつの言い方に落ち着いた。
「私は、私の連続体なのだ」
完全に同じではない。
けれど、昨日の私と今日の私が、
何らかのかたちでつながっている。
名前も、記憶も、身体も、考えも、
どれか一つだけでは不十分でも、
その曖昧な束が、私を私らしくしているのかもしれない。
私は少し安心した。
結局のところ、
「私が私だと考えられる限り、私は私なのだ」
そう思うことにした。
その考えが正しいのかどうかは分からない。
だが少なくとも、その瞬間の私は、
その考えの中で確かに落ち着いていた。
もっとも――
誰かが遠くから呼ぶ。
「私」
その声を聞くたびに、
私は今でも、一瞬だけ振り向いてしまうのだけれど。
―――――
自分自身の存在を本気で見極めようとすると、
その先には、かなりの確率で混乱が待っている。
本来なら、自分はもっとも身近で、もっとも確かな存在のはずである。
それなのに、いざ「では私は何か」と問おうとすると、
名前も、記憶も、身体も、感情も、どれも決定打になりきらない。
だから人は、
深く考えすぎないことで何とか日常を保っているのかもしれない。
もっとも手軽な対処法は、
「とりあえず私は私だ」として先へ進むことだからだ。
では、なぜそこまで混乱するのだろうか。
それは、もともと輪郭の定まっていないものを、
定まっているかのように掴もうとする難しさからだと言えるのかもしれない。
見方によっては、これは神の存在を考えるときにも少し似ている。
感じてはいる。
語ることもできる。
だが、はっきりと手渡せる形にはならない。
もちろん、だからといって
「私は存在しない」と言えば腑に落ちるわけでもない。
存在を感じていること自体は、たしかだからだ。
ただそれが、思った以上に曖昧で、掴みどころがないだけなのである。
だからこそ人は、
名前や肩書きや役割や、
誰かとの関係の中に、自分の存在を置こうとするのかもしれない。
自分の外側に、
「ここに私はいる」と言える印を求めるのである。
では、本当の私は、どこにいるのだろうか。
自分の内側にいるのか。
それとも、誰かに呼ばれた瞬間にだけ立ち上がるものなのだろうか。
名前や肩書きでは定まりきらない“私”を、歌として置いてみました。
タイトル:私という連続体
(Verse 1:日常の痛み・喪失感)
鏡の中の 見慣れた顔に
「君は誰?」と 問いかけてみる
名前や肩書きを 並べても
本当の私には 届かない
(Verse 2:アイデンティティの揺らぎ)
記憶は薄れ 塗り替わってく
あの日の私も 幻みたい
心を証明する ものなんて
どこにもないと 震えていた
(Chorus:感情の爆発・サビ)
私は誰だ 叫んだ夜に
ぼやけた世界で 手を伸ばす
誰かの評価も あてにならなくて
でもこの胸の痛みは 本当だから
「私」という 今を生きるよ
(Bridge:気づき・転換)
昨日の涙と 今日の光が
途切れず続く この奇跡
無数の欠片(かけら)が 形になって
私を私に 変えていく
(Chorus:確信と希望・サビ)
私が私を 信じる限り
ありふれた日々も 愛していける
迷いも弱さも すべて束ねて
光が 明日(あした)を照らし出す
もう 迷わない
(Outro:確かな希望)
遠くで誰かが 名前を呼ぶ
今度は笑って 振り返るよ
私はここに 確かにいる