遠回りにも、意味はあるのかもしれない。失敗や気づきを、物語・歌・動画にしています。
自分とは、何によって決まるのだろうか。
名前なのか、身体なのか、記憶なのか。
もし、記憶そのものを書き換えられたとしたら、そこにいる「私」は本当に私なのだろうか。
自己をめぐる小さな思考遊戯。
―――――
A子は、A子ではなかった。
それに気づいたのは、つい最近のことだった。
それまでA子は、自分がごく一般的な幸せな人生を歩んできたのだと思っていた。
温かい家庭。
穏やかな日々。
何でも正直に打ち明けられるパートナー。
小さな不満はあっても、振り返れば十分に恵まれていたと思える人生。
けれど、それはすべて、他人の人生だった。
いや、正確に言えば、他人の人生として作られた記憶だった。
二年前。
本来のA子は、精神病院に入院していた。
幼い頃から続いた虐待。
長期にわたる精神的な圧迫。
逃げ場のない環境。
積み重なった苦痛。
それらに耐え続けた結果、A子の心は限界を超えていた。
入院してからも、状態はなかなか良くならなかった。
少しの刺激で混乱し、時には自制が効かなくなり、叫び、暴れ、泣き崩れた。
けれど、そうなっていたのはA子だけではなかった。
時代そのものが、人の心にとってあまりにも過酷になっていた。
競争。
孤立。
経済的不安。
終わりの見えない情報の洪水。
誰かと比べられ続ける日常。
精神的に弱い者から順に壊れていくような社会だった。
どの精神病院も、入院患者であふれていた。
医師も看護師も足りなかった。
患者を支えるはずの人間まで、疲弊し、やがて入院する側に回っていった。
助ける人が倒れ、倒れた人を助ける人もまた倒れていく。
その連鎖を止めるために、ある薬が開発された。
それは、心を落ち着かせる薬ではなかった。
苦しみを和らげる薬でもなかった。
記憶を書き換える薬だった。
薬には、典型的な「幸せな人生」の記憶が組み込まれていた。
遺伝子情報と神経伝達の仕組みを利用し、脳の奥深くに直接、新しい記憶を刻み込む。
苦しい過去を消すのではない。
その上から、別の人生を重ねるのだ。
服用した人間は、自分が別の人生を歩んできたように感じる。
愛された記憶。
守られた記憶。
受け入れられた記憶。
信頼できる誰かと暮らしてきた記憶。
それらが、まるで本物のように心に定着していく。
もちろん、表向きには本人の自由意志が尊重されていた。
薬を飲むかどうかは本人が決める。
服用を続けるかどうかも本人が決める。
やめたいと思えば、いつでもやめられる。
A子も、その説明を受けた。
「これは、あなたの苦しみを完全に消すものではありません」
医師はそう言った。
「ただ、あなたが生き続けるための別の足場を作るものです」
A子は、そのときほとんど迷わなかった。
もう、元の記憶の中で生きることに疲れていた。
本当の自分に戻ることより、壊れずに済むことの方が大切だった。
A子は薬を飲んだ。
そして、A子は別の人生を得た。
優しいパートナーがいた。
小さな家があった。
朝には温かい飲み物があり、夜には「おかえり」と言ってくれる声があった。
何でも正直に話せる相手がいる。
それは、A子にとって初めての安全だった。
最初は作られた記憶だったはずなのに、やがてそれはA子の中で本物と区別がつかなくなっていった。
嬉しかったこと。
悲しかったこと。
喧嘩したこと。
仲直りしたこと。
すべてがA子の人生として、自然にそこにあった。
ところが最近、薬の効き目が薄れてきた。
最初は、小さな違和感だった。
パートナーと話している時、ふと知らない病室の匂いが鼻をかすめる。
食卓に座っているはずなのに、白い天井が頭に浮かぶ。
穏やかな会話の途中で、誰かに押さえつけられている感覚が蘇る。
A子は、少しずつ思い出していった。
ここは本当の家ではない。
この人生は、本当の人生ではない。
この幸せは、薬によって与えられた記憶だった。
A子は震えた。
自分が自分だと思っていたものが、足元から崩れていくようだった。
それでも、同時にこうも思った。
では、本来の自分とは何なのか。
苦しみで壊れかけた自分。
何度も暴れ、叫び、現実に耐えられなかった自分。
記憶の中で何度も傷つき直す自分。
それだけが本物だと言えるのだろうか。
薬によって得た穏やかな記憶は、偽物なのだろうか。
そこで感じた安心は、嘘なのだろうか。
パートナーに救われたと思った気持ちは、意味がなかったのだろうか。
A子には分からなかった。
ただ一つだけ、分かっていることがあった。
もう戻りたくない。
あの記憶だけでできた自分には戻りたくない。
苦痛だけが自分の証明だなんて、信じたくなかった。
A子は医師に言った。
「もう一度、薬をください」
医師は静かに確認した。
「本当にいいのですか。あなたは、本来の記憶を取り戻し始めています」
A子はうなずいた。
「本来の記憶が、必ずしも本当の私を幸せにするとは限りません」
そして、A子は再び薬を飲んだ。
しばらくすると、病室の記憶は遠のいていった。
白い天井も、叫び声も、押さえつけられる感覚も、ゆっくりと霧の向こうへ消えていった。
代わりに、あの家が戻ってきた。
優しいパートナーがいた。
静かな夕食があった。
何でも正直に話せる、あたたかな日常があった。
A子は安堵した。
これでいい。
これが私の人生でいい。
そう思った。
けれど、真実はさらに別の場所にあった。
A子の人生は、どちらもA子の人生ではなかった。
精神病院の記憶も。
幸せな家庭の記憶も。
虐待を受けて壊れたという記憶も。
薬で救われたという記憶も。
すべては、自白剤によって引き出された混乱の中で、A子の脳が作り出した物語だった。
本当のA子は、某国でスパイ活動を行っていた。
任務中、ほんの小さなミスをした。
それが原因で捕まり、拘束され、新しく開発された自白剤を無理やり服用させられていたのだ。
その薬は、ただ秘密を吐かせるだけではなかった。
本人の記憶を揺さぶり、偽の人生をいくつも立ち上げ、心の奥に隠された情報を、物語の形で漏れ出させる。
尋問官たちは、A子の言葉を録音しながら、黙って聞いていた。
A子は、自分が精神病院にいたと思っている。
自分が幸せな家庭に戻ったと思っている。
自分が薬を選び、自分の人生を選び直したと思っている。
だが、そのすべてが、尋問室の椅子の上で語られている夢だった。
A子はそれを知らない。
A子は、目の前にいるはずのパートナーに向かって、穏やかに微笑んだ。
「あなた。今日もこんなことがあったのよ」
尋問官の一人が、小さくペンを走らせた。
A子は、続きを話し始めた。
自分だと思って語るその声が、いったい誰のものなのかも知らないまま。
―――――
自分とは、何によって決まるのだろうか。
身体なのか。
名前なのか。
過去なのか。
記憶なのか。
それとも、今この瞬間に「自分だ」と感じている意識なのか。
記憶は、自分を支える大きな柱のように見える。
幼い頃の体験、誰かに言われた言葉、うまくいったこと、傷ついたこと。
それらが積み重なり、「私はこういう人間だ」という感覚を作っていく。
けれど、その記憶が書き換えられたとしたらどうなるのだろう。
苦しい記憶を消し、幸せな記憶を与えられた人は、救われたと言えるのか。
それとも、本来の自分を奪われたと言うべきなのか。
もし、偽物の記憶によって穏やかに生きられるのなら、
それは本物の苦しみより価値がないのだろうか。
一方で、記憶を自由に変えられるなら、自己はどこまでも不安定になる。
誰かに植えつけられた記憶を、自分の記憶だと信じることもできる。
誰かの都合で作られた物語を、自分の人生だと思い込むこともできる。
さらに厄介なのは、私たちの記憶が最初から完全ではないということだ。
人は、自分の記憶をそのまま保存しているわけではない。
思い出すたびに少しずつ変わり、誰かの言葉や態度によっても形を変える。
「最近、変わったね」と言われれば、
本当に自分が変わったように感じることがある。
「あの時のあなたはこうだった」と言われ続ければ、
やがて自分でもそうだった気がしてくることがある。
だとすれば、自己とは、自分一人で作っているものではないのかもしれない。
他人の記憶の中にいる自分。
誰かに語られた自分。
社会から期待された自分。
自分で信じてきた自分。
それらが重なり合って、ようやく「私らしさ」と呼ばれるものが形を持つ。
自分を定義しているのは、自分だけなのか。
それとも、自分を見てきた他者の記憶もまた、自分の一部なのか。
この問いに、簡単な答えはない。
ただ、ひとつ言えるとすれば、
「本当の自分」を探そうとするほど、自分というものは一枚の証明書のようには見つからない。
それは、記憶と感覚と他者のまなざしが重なった、揺れ続ける輪郭のようなものなのだろう。
もしそうなら、私たちが「私」と呼んでいるものも、
思っているよりずっと不確かで、
思っているよりずっと多くのものによって作られているのかもしれない。
私は私だと思っていたものも、
たくさんの声や記憶で作られていたのかもしれない。
それでも今ここから、自分を選び直していく歌です。
洗面台の鏡に映る
見慣れたはずの 私の顔
「優しいね」って言われた言葉を
お守りみたいに 握りしめていた
ふと風が吹いて 前髪が揺れる
窓の外の景色が 滲んでいく
この胸にある温かい記憶は
本当に私が 選んだものなのかな
私は私だと ずっと信じていたけれど
気づけばたくさんの 誰かの声でできていた
ツギハギの記憶の中で 迷子になって
本当の輪郭が 水面に溶けていくみたいだ
褒められた笑顔だけを 切り取って残した
嫌われないようにと 選んで並べた言葉たち
過去の痛みも 誰かの期待も
足元で静かに 影を落としている
私の中にあるのは
誰かの記憶の中の私を ただ演じていた時間?
ゆらゆらと 境界線がぼやけて
どれが本当の気持ちか わからなくなる
私は私だと ずっと信じていたけれど
気づけばたくさんの 誰かの声でできていた
ツギハギの記憶の中で 迷子になって
本当の輪郭が 水面に溶けていくみたいだ
どれが本物で どれが偽物なのか
そんな答え合わせは もうしなくていい
薄い朝の光が カーテンを透かして
今の私を ただ静かに照らしている
ここからもう一度、はじめればいいんだ
誰かの言葉で作られた 私だとしても
その不器用な全部を抱えて 歩いていく
揺れる心を 無理に一つに決めなくていい
今、この瞬間に息をしている
新しい私を 私が選び直すから