遠回りにも、意味はあるのかもしれない。失敗や気づきを、物語・歌・動画にしています。
A子には、忘れられない人がいた。
朝起きたときも。
食事を作っているときも。
買い物に出かけたときも。
布団に入って、もう眠ろうとしているときでさえ。
気づけば、その人のことを考えている。
別に、会いたいわけではない。
けれど、会わずに済むなら済むで、なぜか落ち着かない。
次に会ったとき、何を言われるのか。
どんな顔をされるのか。
自分の服装や言葉や態度を、どう見られるのか。
考えないようにすればするほど、その人の存在は、かえって濃くなっていった。
A子には、優しい夫がいた。
夫に大きな不満はなかった。
よく話を聞いてくれるし、無理に責めることもない。
A子が疲れているときは、何も言わずにそっとしておいてくれる。
だからこそ、A子は余計に自分が嫌になることがあった。
こんなに穏やかな生活があるのに。
こんなに優しい人がそばにいるのに。
なぜ、自分は別の誰かのことで、ここまで心を乱されているのだろう。
その人の一言を思い出すだけで、胸の奥がざわついた。
何日も前の会話が、ふとした瞬間によみがえる。
あの言い方はどういう意味だったのか。
あの目は、何を責めていたのか。
なぜ、あんなふうに言われなければならなかったのか。
考え始めると、止まらなかった。
料理をしながらも考える。
洗濯物をたたみながらも考える。
テレビを見ているふりをしながらも、心の中ではその人との会話を何度も再生している。
そして、気づけば夫に当たってしまう。
「もう、分かってないんだから」
夫は何も悪くない。
それは分かっている。
分かっているのに、声が尖ってしまう。
A子は、そんな自分にまた落ち込んだ。
その人の前では、A子はできるだけ平静を装った。
気にしていないふり。
傷ついていないふり。
怒っていないふり。
何を言われても、軽く受け流せる大人のふり。
そのせいか、その人はA子を信頼しているようでもあった。
ときには相談までしてくる。
何事もなかったように話しかけてくる。
A子が内側でどれほど消耗しているかなど、まるで気づいていない様子だった。
A子は笑ってうなずく。
相槌を打つ。
必要なら、当たり障りのない言葉も返す。
けれど心の中では、糸が張りつめていた。
まるで蜘蛛の巣に絡め取られたようだった。
暴れれば暴れるほど、余計に絡まっていく。
逃げたいのに、逃げるほどその人のことを考えてしまう。
忘れたい相手ほど、頭の中では一番近くにいる。
A子は、そのことにうんざりしていた。
世の中には、同じような悩みを抱えている人が大勢いることも知っていた。
家族。
親戚。
職場。
近所。
昔の知人。
好きでもないのに、頭から離れない相手。
会いたくないのに、会う前から心が準備を始めてしまう相手。
その人の一言に、何日も気分を左右されてしまう関係。
A子だけが特別ではない。
そう分かっているからこそ、なんとかやり過ごしてきた。
散歩をする。
好きなものを食べる。
映画を見る。
掃除をする。
夫に話を聞いてもらう。
気分転換をしながら、どうにか爆発しないようにしていた。
それでも、その日は限界に近かった。
A子は夫の前に座ると、ため息まじりに言った。
「ねぇ、あなた。今日もね……」
夫は静かに顔を上げた。
A子は、堰を切ったように話し始めた。
「今日もお義母さんがね、また服のことを言ってきたの。
それでね、前にも言ったのに、まるで私が何も分かっていないみたいな言い方をして……。
もう、本当に考え方が違いすぎるのよ」
夫は、少し困ったようにうなずいた。
A子は話しながら、ふと思った。
私は今日も、この人の話をしている。
会いたくない。
考えたくない。
関わりたくない。
それなのに、まるで恋でもしているみたいに、頭の中はその人でいっぱいだ。
ただし、この感情には甘さがなかった。
胸の高鳴りも、期待も、切なさもない。
あるのは、苛立ちと疲れと、解けない糸のような重さだけだった。
それでもA子は、今日もその人のことを考えている。
恋ではない。
けれど、心を占領されている。
もしかすると、人は好きな相手だけでなく、嫌いな相手にも、心を奪われてしまうのかもしれない。
夫は、A子の話を最後まで聞いたあと、静かに言った。
「今日はもう、その人のことはここまでにしよう」
A子は、少しだけ黙った。
そして、小さくうなずいた。
「うん。そうする」
そう言ってからも、A子の頭の片隅には、まだその人の声が残っていた。
まるで、消し忘れた小さな灯りのように。
―――――
恋をしているとき、人は相手のことを何度も考える。
何をしていても思い出す。
言葉の意味を考える。
相手の反応を想像する。
たった一言で気分が変わる。
そう考えると、恋とよく似た形で、心を占領するものがある。
それは、怒りや恨みや苦手意識だ。
好きだから考えるのではない。
嫌だからこそ、考えてしまう。
忘れたいからこそ、忘れられない。
関わりたくないからこそ、次にどう関わられるのかを警戒してしまう。
嫁と姑の問題は、その代表的なものの一つかもしれない。
もちろん、嫁姑に限らない。
職場の人間関係でも、親戚でも、近所でも、昔の知人でも、似たことは起こる。
自分にとって苦手な相手が、実際には目の前にいない時間まで、自分の心を占領してしまうことがある。
恋なら、相手のことを考える時間にどこか甘さがある。
苦しさがあっても、期待や高揚もある。
だが、嫌な相手に心を占領される時間には、甘さがない。
ただ消耗する。
ただ疲れる。
ただ、いま目の前にいる大切な人との時間まで削られていく。
心を奪われることは、必ずしも愛とは限らない。
自由に生きているつもりでも、人は案外、誰かの言葉や視線に縛られている。
しかも厄介なのは、その縛りを作っているのが、相手だけではないという点だ。
自分の中の記憶。
警戒心。
傷ついた経験。
次はこう言われるかもしれないという予測。
それらが絡み合い、相手がいない場所にまで、その人の影を連れてきてしまう。
もちろん、すぐに忘れられれば苦労はしない。
距離を置けるなら、それが一番いい場合もある。
けれど、距離を置けない関係もある。
完全に断ち切れない相手もいる。
だからこそ、せめて気づくことから始めるしかないのかもしれない。
いま自分は、その人のことを考えている。
けれど、その人は今ここにはいない。
目の前にいる人まで、巻き込まなくてもいい。
恋に似た形で心を占領されているとしても、そこに自分の一日すべてを差し出す必要はない。
誰かに縛られているように感じるとき、
本当にその糸を握っているのは、相手なのか。
それとも、まだほどけていない自分の心なのか。
それを見つめることもまた、小さな自由への一歩なのかもしれない。
忘れたい相手ほど、頭の中では近くにいることがあります。
けれど、目の前にいない人に、今日まで渡さなくていい。
大切な人の温度と、自分の呼吸へ心を戻していく歌です。
消し忘れた灯りのように
ふとした瞬間 頭をよぎる
見えない蜘蛛の巣に 触れたみたいに
何気ない日常に 入り込む記憶
会いたいわけじゃない 好きでもないのに
どうしても 頭から離れない声
胸の奥で絡んだ ほどけない糸が
いつしか 今の私を縛っていた
目の前にいない人に
私の時間まで 奪われている
過去は消せない あの人は変えられないけれど
自分の心だけは 少し向きを変えて
もう、その人に 私の今日を渡さない
湯気が揺れる 目の前の温かい飲み物
笑いかける そばにいる大切な人
私が生きているのは あの日じゃなくて
今、ここにある静かな暮らし
こわばった肩を下ろして
ゆっくりと 深く息を吸う
カップを包む 手のひらの温度
どうにもならない誰かより この時間を守りたい
目の前にいない人に
私の笑顔まで 奪わせない
完全に忘れるなんて できないけれど
自分のために 今日を取り戻して
少しずつ 心を自分の場所へ返す
もう その人に今日を渡さない
ただ 目の前の温かさを抱きしめて
私の呼吸で 生きていく