遠回りにも、意味はあるのかもしれない。失敗や気づきを、物語・歌・動画にしています。
防げる悲劇があると分かったとき、人はどこまで先回りしてよいのだろう。
しかも、その方法が人を救う一方で、本人の意思や尊厳に踏み込むものだったなら、なおさら簡単には決められない。
予防と人権、そのあいだで立ち止まる小さな思考遊戯。
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A博士は、長年にわたって脳の研究を続けていた。
流行の理論や目新しい装置に飛びつくタイプではなかった。
派手さはなくても、確実に人間そのものを理解すること。
それが、博士にとっての研究だった。
そしてついに、
彼が最優先と考えていた研究が、ひとつの実を結んだ。
それは、前頭葉の一部――とくに眼窩前頭皮質と扁桃体に関する欠陥を特定し、
しかもそれを修復できる可能性を示したものだった。
博士は、静かな興奮を覚えた。
眼窩前頭皮質は、衝動を抑え、社会の中で振る舞うための判断に深く関わる。
扁桃体は、欲求や恐怖、怒りといった感情の動きに強く関係している。
もしその働きに大きな異常があれば、
本人の努力や教育だけでは抑えきれない爆発的な行動が現れることもある。
もちろん、欠陥があるからといって、
ただちに犯罪者になるわけではない。
だが、博士には分かっていた。
人によっては、
「理性で止める」という当たり前の前提そのものが、
最初からひどく不安定な状態に置かれているのだ。
もしそこを安全に修復できるなら――
感情のコントロールが難しい人間が減る。
衝動的な暴力も、予測不能な加害も減る。
それだけではない。
社会全体の摩耗が減れば、
他の最先端研究も、より穏やかで建設的な方向に進みやすくなる。
恐怖や混乱に足を引かれずに済むからだ。
博士は思った。
これは単なる医療技術ではない。
人類全体の進歩の土台を整える発見かもしれない、と。
だが、実際にその処置を社会へ導入しようとしたとき、
博士はすぐに、巨大な壁にぶつかった。
欠陥があることと、法律に違反することは同じではない。
この一点が、すべてを止めた。
脳の一部に異常がある。
将来的に危険な行動へつながる確率が高い。
そう分かったとしても、
まだ何もしていない人間に対して処置を施すことは、
容易には正当化できない。
ましてや、本人の明確な意思もないまま、
勝手に脳へ介入するなど、
人道的に許されるはずがない――
会議では、その意見が何度も繰り返された。
博士にも、その理屈は分かっていた。
分かっているからこそ、
彼は別の切り口を探した。
「では、扁桃体だけでも異常を治せないだろうか」
博士は、そう問い直した。
眼窩前頭皮質まで含めると、
人格や判断の深い部分に踏み込みすぎる。
だが扁桃体であれば、
少なくとも欲求や感情の異常な暴走を鎮めるという形で、
より限定的な処置として扱えるかもしれない。
扁桃体の異常が強い場合、
欲求のコントロールが効かなくなり、
怒りや衝動が一気に噴き出す行動パターンが出やすくなる。
ならば、そこだけでも修復できれば――
衝動的な殺人や突発的な加害は、かなり減るはずだった。
博士にとって、それは十分に大きな意味を持っていた。
完璧ではなくてもいい。
全部を変えられなくてもいい。
目の前で起こるはずだったいくつかの悲劇を、
未然に減らせるだけで、どれだけ多くの人命が救われるか分からない。
その案は、以前より現実的に見えた。
範囲は限定的。
副作用も低い。
社会的な利益も大きい。
少なくとも博士は、そう信じていた。
だが、その案も却下された。
表向きの理由は、明快だった。
「個人の意思を尊重する必要がある」
本人が望んでいない処置はできない。
どれほど将来的な危険が示唆されていても、
実際に罪を犯していない段階で介入することは認められない。
それが、人権を守る社会の最低条件だとされた。
博士は、何度もうなずいた。
その言葉そのものに、間違いはない。
むしろ正しいのだろう。
だが、会議の終わったあと、
別室で交わされる本音は別のところにあった。
もし衝動的な暴力や犯罪が大きく減れば、
多くの業界の売上が下がる。
警備。
保険。
防犯機器。
薬物治療。
矯正産業。
炎上と不安を燃料に回っている娯楽や報道。
人間の混乱や衝動が減ることで、
困る側がある。
博士は、その事実を知った。
最初は聞き間違いかと思った。
だが違った。
その場にいた者たちは、誰も冗談では話していなかった。
表では、個人の意思。
裏では、企業の利益。
その両方が並べられたとき、
本当に強く働いていたのがどちらなのか、
博士には嫌というほど分かってしまった。
彼はしばらく何も言えなかった。
人権を守るために止める。
それならまだ分かる。
苦しいが、分かる。
だが、利益のために止めるのだとしたら。
救えると分かっている悲劇を、
売上の都合で見送るのだとしたら。
それは本当に、
「個人の意思を尊重した」ことになるのだろうか。
それともただ、
責任を引き受けたくない者たちが、
もっとも聞こえのいい言葉を前に置いただけなのだろうか。
A博士は、研究室へ戻った。
モニターには、修復後の安定した反応パターンが映っている。
数値だけを見れば、
そこには減らせたはずの暴発があり、
未然に防げたはずの加害があり、
救えたはずの未来が並んでいた。
博士は、椅子に座ったまましばらく動けなかった。
自分が見つけてしまったものは、
希望ではなく、
人間が何を優先するのかを暴いてしまう鏡だったのかもしれない。
予防できる。けれど、やらない。
その選択が、
本当に何もしていないことと同じだと言えるのかどうか――
博士には、もう分からなかった。
ただ一つ分かるのは、
防げたはずの悲劇がこの先も起こるたび、
そのたびに誰かが
「仕方がなかった」
という言葉で片づけようとするだろう、ということだけだった。
―――――
多くの人命が救われる、あるいは犯罪が予め抑制されると分かっているとき、
非人道的に見える方法を選ぶことは許されるのだろうか。
簡単な話ではない。
予防の名のもとに、人の身体や脳へ先回りして介入することには、
明らかに危うさがある。
本人の意思を飛び越えてしまえば、
それは救済であると同時に支配にもなりうるからだ。
だがその一方で、
救えると分かっていながら何もしないことが、
本当に中立だと言い切れるかどうかも怪しい。
しかも、そこで優先されるのが
人権や尊厳についての慎重な議論ではなく、
売上や市場の維持であるなら、なおさらである。
利益が優先されがちな資本主義社会では、
表向きは美しい理由が掲げられながら、
実際には別の都合が選択を決めていることも、
決して珍しくないのかもしれない。
もちろん、だからといって
「救えるなら何をしてもいい」
となるわけではない。
その考えはその考えで、別の暴力を正当化しかねない。
問題はむしろ、
予め対策できると分かっているのにそれをやらない場合、
その不作為は本当に責任ゼロで済むのか、という点にある。
切羽詰まった、分かりやすい悲劇だけを前にして責任が問われ、
それ以前の段階では
「まだ起きていないのだから」
で済まされるのだとしたら、
人はどこまで未来の被害に無関係でいられるのだろうか。
結果が出てから動く方が、
たしかに責任逃れはしやすい。
だがそれは、
責任がないということとは、少し違うのかもしれない。
恵みの雨と消えない火種
「この街では、誰かの不幸さえ『恵み』に変わる。」
止められる悲劇だと知りながら、火種を残す社会。
消せるはずの火を、見守るだけの残酷。
この曲は、そんな 「誰も手を汚さない暴力」 をイメージしました。
あなたの傘は、誰の涙を遮っていますか?