遠回りにも、意味はあるのかもしれない。失敗や気づきを、物語・歌・動画にしています。
A子は、大衆の顔色を読むことで成功してきた脚本家だった。
視聴率は取れる。話題にもなる。けれど、その作品は放送が終わるとすぐに忘れられていった。
大衆に合わせることと、人間を見ることをめぐる小さな思考遊戯。
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A子は、テレビ界で名を馳せる脚本家だった。
彼女が手がけるドラマは、いつも高い視聴率を取った。
放送日の翌日には、ネットニュースに取り上げられ、SNSでも話題になる。
「またA子さんが当てた」
「さすが、今の空気を読むのがうまい」
「大衆が求めているものを分かっている」
業界では、そう評価されていた。
A子自身も、それを否定しなかった。
彼女の成功の秘訣は、大衆の顔色を読むことにあった。
何が嫌われているのか。
何が叩かれやすいのか。
どんな言葉が反応を呼ぶのか。
どんな人物を出せば、視聴者は怒り、笑い、泣いた気になるのか。
A子は、それをよく知っていた。
昔のように、じっくり取材し、人物の背景を掘り下げ、何度も脚本を書き直す必要はない。
今はネットを見れば、視聴者が何に反応しているのかがすぐに分かる。
炎上している話題。
拡散されている怒り。
称賛されている短い言葉。
切り抜かれた泣ける場面。
分かりやすい悪役。
分かりやすい復讐。
分かりやすい逆転。
それらを拾い集め、ドラマの中に配置する。
すると、作品はよく動いた。
第1話の最後には、視聴者が驚く裏切りを置く。
第2話では、正義感の強い人物が理不尽に追い詰められる。
第3話では、誰かの過去が暴かれる。
第4話では、視聴者が叩きやすい人物を用意する。
A子は、そうやって大衆の感情を巧みに揺らした。
費用はあまりかからない。
深い取材も必要ない。
複雑な人物造形もいらない。
必要なのは、強い刺激だった。
怖さ。
怒り。
涙。
ざまあみろという快感。
分かりやすい正義。
それだけで、十分に数字は取れた。
プロデューサーは喜んだ。
「A子さん、今回も数字がいいですね」
「やっぱり今の視聴者には、これくらい分かりやすい方が刺さるんですよ」
「難しいことをやっても、みんなついてきませんから」
A子は笑ってうなずいた。
「そうですね。今は速度の時代ですから」
そう言いながら、心の奥に小さな虚しさが残っていることに、A子は気づいていた。
視聴率は高い。
話題にもなる。
けれど、作品が残らない。
放送中は騒がれる。
翌日は感想が飛び交う。
数日後には、もう別の話題に上書きされている。
A子の作品は、よく燃えた。
だが、長く灯ることはなかった。
視聴者の感情を刺激することには成功していた。
けれど、視聴者の人生に残るものを渡せている実感はなかった。
A子は、そのことを考えないようにしていた。
テレビ局も、そんなことは求めていなかった。
求められているのは、今夜の数字。
次回予告の引き。
ネットでの反応。
スポンサーが納得する結果。
「心に残るかどうか」は、数字になりにくい。
だから、会議ではあまり話題にならなかった。
やがて、インターネットの勢いはさらに強くなった。
人々はテレビの前に座らなくなった。
スマホの画面で、短い動画を次々に流し見るようになった。
テレビ局は焦った。
「もっと刺激が必要だ」
「もっと展開を早くしよう」
「ネットに負けないスピード感を出さないと」
「視聴者を取り戻すには、ネットで話題になる要素を入れるしかない」
A子も、その流れに従った。
ネットで話題になっているものを調べる。
伸びている投稿を見る。
炎上している発言を分析する。
コメント欄の空気を読む。
そして、その空気を脚本に反映した。
だが、皮肉なことに、そうすればするほど、視聴者はテレビから離れていった。
薄くて刺激的なものなら、ネットにいくらでもある。
短く、速く、強いものなら、テレビよりもネットの方が得意だった。
テレビがネットの真似をすればするほど、テレビである必要は薄れていった。
A子は、ようやく違和感を覚え始めた。
「私は、大衆を見ているつもりだった」
けれど、本当に見ていたのは、大衆だったのだろうか。
ネットで目立つ声。
強く反応する人。
何度も書き込む人。
怒りを拡散する人。
刺激的な言葉に集まる人。
A子が見ていたのは、そうした一部の声だった。
多くの人は、日々の生活に追われている。
仕事をし、家事をし、家族のことを考え、疲れた身体で眠りにつく。
その人たちは、毎日長いコメントを書いているわけではない。
怒りを拡散し続けているわけでもない。
派手な言葉で自分を表現しているわけでもない。
静かに生活している人ほど、ネット上では見えにくい。
A子は、その当たり前のことを忘れていた。
大衆の顔色を伺っていたのではない。
自分が想像した「大衆」という顔を見ていただけではないのか。
画面の中に流れる反応を見て、
人間そのものを見た気になっていた。
ある日、A子のもとに一通の手紙が届いた。
差出人は、名前も知らない視聴者だった。
そこには、丁寧な字でこう書かれていた。
「A子さんの作品を、ずっと観てきました。
いつも展開が早く、驚きもあり、最後まで飽きずに観ることができます。
何度も救われた夜もありました。ありがとうございます」
A子は、少しだけ笑った。
けれど、その先に書かれていた言葉で、手が止まった。
「ただ、一つだけ聞いてみたいことがあります。
A子さんは、本当にこれが最高の作品だと思っていますか。
一度観たら忘れてしまう刺激ではなく、
何度も観たくなるもの。
観るたびに、少し違う感情が戻ってくるもの。
人生のどこかで、ふと思い出してしまうもの。
そういう作品を、作りたいとは思いませんか」
A子は、しばらく手紙を見つめていた。
その質問は、批判ではなかった。
責める言葉でもなかった。
だからこそ、深く刺さった。
もし乱暴に罵られていたら、A子は簡単に無視できただろう。
「分かっていない」
「時代遅れだ」
「数字を取る難しさを知らない」
そう言って、自分を守ることができた。
だが、その手紙には、A子の作品に救われた感謝も書かれていた。
その上で、静かに問われていた。
あなたは本当に、これでいいと思っていますか。
A子は、その夜、過去の自分の作品をいくつか見返した。
よく出来ていた。
展開は早い。
台詞も強い。
山場も多い。
視聴者を飽きさせない工夫も詰まっている。
だが、見終えたあと、何も残らなかった。
正確に言えば、残らないように作っていたのだ。
重すぎる感情は避ける。
考え込ませる沈黙は削る。
分かりにくい人物の揺れは単純化する。
視聴者が迷う場面は、すぐに説明台詞を入れる。
それは親切でもあった。
だが同時に、視聴者を信じていない作り方でもあった。
A子は、初めてそのことに気づいた。
視聴者は難しいものを求めていない。
視聴者は深いものを理解しない。
視聴者は刺激がなければ離れていく。
そう決めつけていたのは、誰だったのか。
大衆の顔色を伺っていたのではない。
自分が想像した「大衆」という顔を見ていただけではないのか。
A子は、次の作品で大きく方針を変えることにした。
刺激的な展開を減らした。
分かりやすい悪役を置かなかった。
登場人物の言葉にならない葛藤を、時間をかけて描いた。
大きな事件は起きない。
派手な復讐もない。
誰かを一方的に断罪する場面もない。
あるのは、生活だった。
仕事で疲れて帰ってきた人の、台所での沈黙。
言い過ぎた言葉を謝れないまま、翌朝を迎える夫婦。
親に言えなかった一言を、何年も抱えたまま生きている子ども。
成功したはずなのに、なぜか虚しくなる中年。
誰にも見えないところで、ぎりぎり踏みとどまっている人。
A子は、何度も脚本を書き直した。
効率は悪かった。
会議では、何度も反対された。
「これ、地味すぎませんか」
「もう少し事件を入れましょう」
「視聴者が離れますよ」
「ネットで話題になる要素が弱いです」
それでもA子は、譲らなかった。
「今回は、人間を描きたいんです」
プロデューサーは困った顔をした。
「人間を描くのはいいです。でも、数字が取れなければ続けられません」
その言葉は正しかった。
作品は、誰にも届かなければ存在しないのと同じになる。
どれほど深いものを作っても、観てもらえなければ終わる。
A子にも、それは分かっていた。
それでも彼女は、今回は数字だけを追わないと決めた。
放送日が来た。
第1話の視聴率は、予想を大きく下回った。
ネット上の反応も鈍かった。
「退屈」
「何が言いたいのか分からない」
「前のA子作品の方が面白かった」
「もっとスカッとする話が観たい」
そんな声が並んだ。
テレビ局の空気は冷たくなった。
プロデューサーは、A子に言った。
「このままでは厳しいです。
視聴者が求めるものを提供しなければならないんです」
A子は、何も言い返せなかった。
その通りだったからだ。
視聴率が取れなければ、次はない。
次がなければ、作品を届けることもできない。
大衆の顔色を伺うことをやめた瞬間、
A子は大衆に届かなくなり始めていた。
それでも、少しずつ別の反応が届き始めた。
「派手ではないのに、なぜか忘れられません」
「二回目に観たら、最初と違う場面で泣きました」
「母に言えなかったことを、少し思い出しました」
「このドラマを観て、昔の友人に連絡しました」
数は少なかった。
だが、その一つひとつは、以前よりもずっと重かった。
A子は、初めて不思議な感覚を味わった。
以前は、多くの人が騒いでも、すぐに消えていった。
今は、少数の人が、長く持ち帰っている。
どちらが正しいのか、A子には分からなかった。
大衆の顔色を読むことは、間違いではない。
見てもらうためには、時代の空気を知る必要がある。
だが、大衆の顔色だけを見ていると、
大衆の中にいる一人ひとりの人間が見えなくなる。
A子は、手紙を机の引き出しにしまった。
そこには、あの問いが残っている。
あなたは本当に、これが最高の作品だと思っていますか。
A子は、今も答えを出せずにいる。
ただ一つだけ、以前より分かることがあった。
大衆の顔色を伺えば、数字は取りやすい。
けれど、人間の顔を見なければ、作品は残りにくい。
A子は、次の脚本の一行目を書き始めた。
その作品が多くの人に届くかどうかは、まだ分からない。
だが、少なくとも今度は、
画面の向こうにいる「大衆」ではなく、
どこかで静かに生きている一人の人間に向けて書こうと思った。
―――――
大衆に合わせることは、必ずしも悪いことではない。
作品は、誰かに届いて初めて作品になる。
どれほど深いことを描いても、誰にも見てもらえなければ、そこに生まれる対話は限られてしまう。
だから、時代の空気を読むこと。
人が何に疲れ、何を求め、何に反応しているのかを知ること。
それ自体は、作り手にとって大切なことだと思う。
けれど、大衆の顔色ばかりを伺っていると、いつの間にか大衆そのものを見失うことがある。
ネットで目立つ声。
強く反応する言葉。
拡散されやすい怒り。
一瞬で消費される感動。
それらは確かに、大衆の一部ではある。
だが、それだけが大衆ではない。
多くの人は、毎日の生活の中で静かに疲れている。
仕事をし、家事をし、誰かを気にかけ、時には何も言えないまま一日を終える。
その人たちの多くは、派手な言葉で自分の感情を発信し続けているわけではない。
けれど、そこにも確かに人生がある。
本当に描くべきものは、声の大きな反応の中ではなく、
むしろ声にならない生活の中に隠れているのかもしれない。
感情を刺激する作品は、すぐに届く。
怒り、驚き、涙、快感。
それらは人の目を引き、話題を作り、数字にもなりやすい。
だが、刺激は強いほど、消えるのも早い。
一方で、何度も観たくなる作品は、すぐには燃え上がらないことがある。
最初は静かで、地味で、分かりにくく見えることさえある。
けれど、時間が経ってからふと思い出される。
別の年齢になってから、違う場面が胸に刺さる。
一度目には通り過ぎた台詞が、二度目には自分のことのように響く。
そういう作品は、数字にはすぐ表れない。
だから作る側は、迷う。
今、反応されるものを作るのか。
後から残るものを作るのか。
大衆の顔色を伺えば、今の反応は取りやすい。
だが、人間そのものを見なければ、作品は浅くなる。
逆に、人間だけを深く見つめても、届く形を失えば、作品は孤独になる。
だから問題は、単純に「大衆に合わせるか、合わせないか」ではないのだと思う。
大衆という曖昧な顔を見るのか。
その奥にいる、一人ひとりの人間を見るのか。
そこに違いがある。
多くの人に届くことを諦めず、
それでも、目立つ反応だけに作品を支配させないこと。
それは、とても難しい。
けれど、もし作り手が本当に何かを残したいのなら、
「いま大衆が何に反応しているか」だけではなく、
「人は何を抱えて生きているのか」を見続ける必要があるのかもしれない。
すぐに忘れられる刺激を作るのか。
何度も戻ってきたくなる余韻を作るのか。
そのどちらにも価値はある。
ただ、作り手自身が、
自分はどちらを作っているのかを見失ったとき、
作品はもっとも空虚になるのかもしれない。
あなたが今、何かを作る側にいるなら。
あるいは、何かを選んで受け取る側にいるなら。
その作品は、大衆の顔色を見て作られたものだろうか。
それとも、人間の顔を見て作られたものだろうか。
その違いは、見終わった直後ではなく、
時間が経ったあとに、静かに分かるのかもしれない。