遠回りにも、意味はあるのかもしれない。失敗や気づきを、物語・歌・動画にしています。
余命を告げられたことで、A子は世界の見え方を一変させた。
生きているだけで幸せだと思えるようになり、些細なことにも感謝できるようになった。
けれど人は、幸福だけでなく、奇跡にさえ慣れてしまうのだろうか。
楽観主義と快楽適応をめぐる小さな思考遊戯。
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A子にとって、すべてはどうでもよかった。
日夜流れてくるニュースも、
お金のことも、
人間関係の悩みも、
以前なら心を乱していたはずの出来事も、今のA子には、どこか遠くの小さな波のように思えた。
流行りの服も、別に欲しいとは思わない。
隣の家から時折聞こえてくる騒音も、たいして気にならない。
A子は、窓の外を眺めながら思った。
「みんな、それぞれの環境で、一生懸命生きているのよね」
そう思うと、不思議と優しい気持ちになれた。
A子は楽観主義だった。
どうでもいい、という言葉だけを聞けば、投げやりに聞こえるかもしれない。
けれど、A子の場合は違っていた。
少しでもラッキーなことがあれば、心から嬉しくなれた。
何か問題が起きても、大したことには思えなかった。
失敗しても、嫌なことがあっても、以前のように長く引きずることはなくなっていた。
どうでもいいから、やる気がなくなったわけではない。
むしろ逆だった。
限られた時間を、どうでもいい不満や比較に使うのが、もったいなくなった。
だからA子は、後悔しないように、本当に自分がしたいことへ没頭するようになった。
以前のA子は、そんな考え方ではなかった。
普通の人と同じように悩み、苦しみ、
ちょっとした言葉に腹を立て、
欲しいもので頭をいっぱいにし、
誰かの幸せそうな姿を見ては、自分だけが取り残されたような気持ちになっていた。
それが今では、違った。
昼に入った小さな食堂で、温かいカツ丼を食べただけで、涙が出そうになった。
甘辛い出汁。
湯気の立つご飯。
柔らかい卵。
隣の席で、何でもない会話をしている人たちの声。
そのすべてが、奇跡のように思えた。
「こんなことで、こんなに幸せになれるなんて」
A子は、ふと考えた。
自分はいつから、こんなふうに世界を見るようになったのだろう。
答えは、すぐに分かった。
忘れもしない。
今から一年前のことだった。
医者から、余命を宣告された日。
A子は、余命半年だと言われた。
その瞬間、目の前の世界から音が消えたような気がした。
未来の予定も、欲しかった服も、人間関係の悩みも、腹を立てていた出来事も、すべてが急に色を失った。
その代わりに、今まで見えていなかったものが見えるようになった。
朝、目が覚めること。
水を飲めること。
誰かと話せること。
空が明るくなること。
自分の足で歩けること。
そのどれもが、当たり前ではなかった。
A子は余命半年を過ぎ、それでもまだ生きていた。
ただ生きている。
それだけで、十分すぎるほど幸せだった。
そんなある日のことだった。
検査結果を見た専門医が、何度も資料を確認しながら、信じられないという顔で言った。
「信じられません。すべて、跡形もなく消えています」
A子は、意味が分からなかった。
「消えている、というのは……」
「病変が確認できません。以前の画像と照合しても、説明がつかないほどです」
A子は、開いた口が塞がらなかった。
医師は慎重に言葉を選びながら続けた。
「もちろん、医学的には断定できません。ただ、強いストレスが身体に影響することはあります。逆に、前向きな気持ちや生活の変化が、体調に良い影響を与える可能性も否定はできません」
A子は、震える手で胸元を押さえた。
助かった。
その言葉が、頭の中で何度も反響した。
A子は、生かされたのだと思った。
これからは、もっと感謝して生きていこうと思った。
二度と、くだらないことで腹を立てたり、誰かと比べたり、自分の人生を粗末に扱ったりしないと心に誓った。
それから十年後。
A子は、スーパーのレジ前で眉間にしわを寄せていた。
「もう、なんでこんなに並んでるのよ。レジを増やせばいいだけじゃない」
前の客が小銭を探しているのを見て、ため息をつく。
帰宅すれば、隣の家の物音に苛立ち、
ニュースを見れば文句を言い、
友人の近況を聞けば、心のどこかで張り合うようになっていた。
あの余命宣告の日。
奇跡のように助かった日。
カツ丼に涙が出そうになった日。
それらを忘れたわけではない。
忘れたわけではないのに、A子はいつの間にか、以前の自分に戻っていた。
ある夜、A子はふと気になった。
「あの日のことを忘れたわけじゃない。なのに、なぜ元に戻ってしまったのかしら?」
気になったA子は、少し心理学について調べてみた。
すると、どうやらそれは「快楽適応」と呼ばれる心理現象に近いらしいことが分かった。
人は、大きな幸福を手に入れても、
強い安心を得ても、
信じられないほどの奇跡を経験しても、
時間が経つにつれ、その状態に慣れてしまう。
最初は涙が出るほどありがたかったことも、やがて普通になる。
普通になれば、また不満が出てくる。
足りないものが見え始める。
比較が始まる。
人は、失ったものにだけ慣れるのではない。
取り戻した命にさえ、慣れてしまう。
A子は、画面を見ながら深くうなずいた。
「原因が分かってよかったわ。文句が出るのも、生きている証拠よね」
そう言って、少しだけ晴れやかな顔になった。
そして、スマホを手に取った。
「あの女にだけは負けたくないから、ストレス解消にショッピングに行かなくちゃ」
A子は、楽しそうに通販サイトを開いた。
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人は、苦しみにも慣れる。
だが同じように、幸福にも慣れる。
最初は奇跡に思えたことも、時間が経てば日常になる。
日常になれば、そこに不満が入り込む余地が生まれる。
命が助かったこと。
今日も目が覚めたこと。
食事ができること。
誰かと会話できること。
それらは、失いかけた瞬間には圧倒的な価値を持つ。
しかし、取り戻したあとも同じ強度で感謝し続けることは、簡単ではない。
だからといって、それを単純に愚かだと責めることもできない。
もし人がいつまでも強い恐怖や感謝に支配され続けたら、日常を普通に生きることさえ難しくなるだろう。
慣れることは、心を守る仕組みでもある。
同時に、慣れることは、大切なものを見失う仕組みでもある。
問題は、慣れてしまうことそのものではないのかもしれない。
慣れたあとに、
自分が何に戻っていくのか。
何を「当たり前」として雑に扱い始めるのか。
そこに、その人の本当の姿が少しずつ現れるのだろう。
奇跡を忘れずに生きることは難しい。
けれど、忘れてしまう自分に気づくことなら、まだできるのかもしれない。
その気づきさえも、いつかまた忘れてしまうとしても。