遠回りにも、意味はあるのかもしれない。失敗や気づきを、物語・歌・動画にしています。
五感も、記憶も、不自由さも、失敗も再現された仮想現実。
もし、そこから戻ってきたと思った場所にまで、同じような現実感があったとしたら。
「現実らしさ」をめぐる小さな思考遊戯。
―――――
A男は、仮想現実サービスを利用することにした。
それは、最近始まったばかりの新しいサービスだった。
専用の機械に入ると、脳波と五感が接続され、仮想現実の世界を現実と同じ感覚で味わえるという。
見える。
聞こえる。
匂いもする。
触れた感覚もある。
食べれば味もする。
ただし、どれほどリアルでも、利用者が「これは仮想現実だ」と分かっているかぎり、どこかに虚しさが残る可能性があった。
そこで、このサービスには特別な仕組みがあった。
仮想現実の世界に入っているあいだは、現実世界のことを忘れる。
ただ忘れるだけではない。
現実で持っていた経験や知識は、仮想現実の中で得たものとして、自然に記憶がすり替えられる。
つまり、仮想現実の中にいるあいだ、利用者はその世界を本当の現実だと思い込むのだ。
A男は、説明を聞いて少し不安になった。
「それで、どうやって戻ってくるんですか?」
担当者は落ち着いた声で答えた。
「ご安心ください。入る前に日数を設定します。設定した日数を過ごしたあと、仮想現実内で睡眠に入ると、こちらの現実へ戻る仕組みです」
仮想現実の中では、時間の流れも調整できる。
ただし、脳の許容範囲を考えると、現実の五時間で最大一ヶ月までが安全な上限とされていた。
A男は初めてだったので、三日間だけ設定することにした。
狭い部屋に案内され、椅子に腰掛ける。
頭部に軽い装置を取りつけられ、担当者が最後に確認した。
「三日間でよろしいですね?」
A男はうなずいた。
「はい。まずは試しに」
そして、ゆっくりと目を閉じた。
次の瞬間、A男は別の世界で目を覚ました。
そこには生活があった。
部屋があり、仕事があり、人間関係があり、食事があり、疲れがあり、ちょっとした達成感もあった。
ただ楽しむだけの世界ではなかった。
面倒な依頼もある。
うまくいかない仕事もある。
誰かに注意されることもある。
努力しなければ報酬は得られない。
だが、それがかえって現実らしかった。
三日間は、思っていたよりも長く感じられた。
大変なことも多かったが、振り返ると充実していた。
三日目の夜、A男は仮想現実の中で眠りについた。
そして、現実世界の椅子の上で目を覚ました。
「おかえりなさい」
担当者の声がした。
A男は深く息を吐いた。
「すごいですね。本当に、あっちが現実だと思っていました」
それからA男は、少しずつそのサービスにハマっていった。
最初は週に一度。
次に二日に一度。
やがて、仕事帰りに毎日通うようになった。
休みの日には、現実の五時間を使って、仮想現実の一ヶ月を過ごすこともあった。
仮想現実の世界では、A男は別の仕事をしていた。
その世界の中にも評価があり、失敗があり、責任があった。
何でも自由にできるわけではない。
むしろ、思い通りにいかないことの方が多かった。
けれど、その不自由さが、A男には妙に心地よかった。
好き放題できる世界より、うまくいかない世界の方が、なぜか本物らしく感じられたのだ。
そんなある日のことだった。
A男は、仮想現実世界の中で仕事に行き詰まっていた。
何度やっても、同じところで失敗する。
周囲からの評価も下がってきた。
気分転換をしようとしても、頭の中に仕事のことが残り続ける。
「少し休みたいな」
そう思ったとき、A男はその世界の中にある娯楽施設を思い出した。
そこには、ミニゲームと呼ばれるサービスがあった。
ミニゲームとはいっても、ただの映像ではない。
気分転換として十分に没入できるよう、かなり高いリアリティが用意されているという。
A男は、軽い気持ちで申し込んだ。
施設の中にある狭い部屋へ入る。
椅子に腰掛ける。
頭部に装置を取りつけられる。
どこかで見たことのある手順だった。
A男は一瞬、妙な感覚を覚えた。
「……あれ?」
しかし、すぐに考えるのをやめた。
仕事で疲れているのだろう。
そう思った。
担当者が言った。
「では、目を閉じてください」
A男は、ゆっくりと目を閉じた。
次に目を開けたとき、A男はベッドの中にいた。
見慣れた天井。
見慣れた部屋。
窓の外から差し込む朝の光。
A男は、ぼんやりと起き上がった。
「……朝か」
歯を磨き、顔を洗い、簡単な朝食をとる。
スマホを確認し、天気を見て、今日の予定を考える。
休日だった。
「さぁ、今日は何をするかな」
A男は少し迷ったあと、自然に思いついた。
「よし。今日も仮想現実サービスに行って、続きを楽しもう」
その瞬間、胸の奥に、ほんの小さな違和感が走った。
何かが変だった。
けれど、何が変なのかは分からない。
現実は忙しい。
考えることはいくらでもある。
支払い、予定、連絡、天気、食事、体調。
その煩雑さの中で、違和感はすぐに薄れていった。
「まあ、考えても仕方ないか」
A男はそう思い、外へ出た。
その日も仮想現実サービスへ向かい、いつものように狭い部屋に入り、椅子に腰掛け、目を閉じた。
そしてまた、別の現実で目を覚ました。
A男は気づいていなかった。
彼が現実だと思って戻ってきた世界は、仮想現実の中で起動したミニゲームだった。
そのミニゲームの中で、さらに仮想現実サービスへ向かう。
その先で、また別の世界に入り、そこで疲れ、気分転換を求め、また別の現実へ入っていく。
どの世界にも、仕事があった。
人間関係があった。
報酬があり、失敗があり、眠れない夜があった。
そして、どの世界にも「ここが現実だ」と思えるだけの煩わしさがあった。
A男は、今日も戻ってきたつもりでいる。
だが、戻ってきた場所が本当に戻るべき場所なのかを、確かめる方法は、もうどこにも残っていなかった。
―――――
現実とは何だろう。
五感があることだろうか。
記憶が連続していることだろうか。
他者との関わりがあり、規則があり、それを破ればペナルティがあり、うまくやれば報酬があることだろうか。
仮想現実に虚しさを感じるとしたら、それは「何でも思い通りにできる」と分かってしまうからかもしれない。
努力しなくても報酬が得られ、痛みもなく、失敗しても簡単にやり直せるなら、そこには現実らしい重さが欠けている。
では逆に、仮想現実の中に、不自由さや失敗や面倒くささまで用意されたらどうなるのだろう。
仕事がうまくいかない。
人間関係に悩む。
思い通りにならない。
時間をかけて努力しなければ、欲しいものが手に入らない。
そのような苦労まで含めて設計された世界は、私たちにとって十分に「現実らしい」ものになるのかもしれない。
幸福は、ただ与えられるだけでは薄くなる。
不幸や不自由があるからこそ、そこから抜け出そうとする意思や努力に、現実感が生まれる。
だとすれば、現実感とは快楽だけではなく、痛みや制限や不確実さによって支えられているとも言える。
そしてもし、五感の質と、記憶の連続性と、行動に対する報酬と罰がそろっているなら。
それが脳だけで起きているのか、全身で起きているのかを、私たちはどこまで区別できるのだろう。
ゲームで勝ったときの高揚も、負けたときの悔しさも、現実の感情とよく似ている。
身体を通しているか、画面や脳内の処理を通しているかの違いはあっても、感じている本人にとっては確かに「起きたこと」になる。
現実に戻ってきたと思うのは、記憶がそう言っているからだ。
ここが本物だと感じるのは、感覚がそう語っているからだ。
だが、その記憶も感覚も、もし再現できてしまうのなら。
私たちは、現実に戻ってきたことを、何によって確認できるのだろうか。
もしかすると、現実とは「絶対に本物だと証明できる場所」ではなく、
今いる場所を本物として扱いながら、そこで選び続けている状態のことなのかもしれない。
気晴らしで空白を埋め続けるうちに、
いつの間にか自分に戻る時間を失っていく。
けれど、何もしない静けさの中で聞こえる小さな音が、
不完全でも温もりのある現実へ、そっと連れ戻してくれることがあります。
疲れた体を ベッドに沈め
光る画面を ただ指でなぞる
静かすぎる時間が 少し怖くて
流れる映像で 隙間を埋めた
気晴らしのつもりで 飛び込んだのに
気づけばまた 別の疲れを呼ぶ
逃げては戻り また逃げ込んで
終わらない迷路を 歩いている
逃げた先にも また日常があって
空白を埋めるほど 自分を失くしていく
だけど 何もしない静けさのなか
小さな温もりに 気づくことがある
完璧じゃない この現実(せかい)で
くだらないことほど 愛おしいんだと
眩しい画面を そっと閉じたあと
暗闇の部屋に 響く小さな音
何気ないしぐさや
ふとした表情
くだらないほど小さなことで
胸があたたかくなる
意味なんてない そんな出来事が
探したどの景色より あたたかい
あなたが確かに 生きている呼吸が
迷子の私を ここへ繋ぎ止める
逃げたくなる日が あってもいいよね
でも次にそっと 目を開けるときは
この小さな温もりを 見失わずにいたい
傷ついてもいい 不完全でもいい
あなたの温もりがある 現実(ここ)へ帰りたい
些細なことを 大切に思える自分でいたい
静かな部屋
小さな息遣い
また、明日へ……