遠回りにも、意味はあるのかもしれない。失敗や気づきを、物語・歌・動画にしています。
見えること。触れられること。声が届くこと。
それらがすべて失われたとき、人はまだ「そこにいる」と言えるのだろうか。
五感と存在の正体をめぐる小さな思考遊戯。
―――――
A博士は、目の前に置かれた果物をじっと眺めていた。
赤く丸い形。
つやのある皮。
鼻を近づけると、甘い香りがする。
A博士はそれを手に取り、ひと口かじった。
シャクッ、という歯ざわり。
みずみずしい果汁。
ほどよい甘みと酸味。
「ふむふむ。なるほど」
A博士は満足そうにうなずいた。
「確かに、りんごだ」
しかし、そこにあったものは、りんごではなかった。
本当は、みかんだった。
見た目だけではない。
触った感触も、重さも、匂いも、味も、すべてがりんごとして感じられる。
A博士の目の前にあるみかんは、A博士にとっては完全にりんごだった。
「成功だ」
A博士は、静かに笑った。
彼が開発したのは、五感すべてを変換する装置だった。
視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚。
人間が世界を感じ取るために使っている感覚を、任意の別の情報に置き換えることができる。
みかんをりんごに感じさせることなど、まだ序の口にすぎなかった。
A博士の本当の目的は、透明人間になることだった。
ただ姿を消すだけではない。
目に見えない。
触れても分からない。
匂いもしない。
足音も聞こえない。
気配すら感じ取られない。
つまり、誰の五感にも引っかからない存在になること。
A博士は、自分の身体に装置を取り付け、実験を始めた。
スイッチを押した瞬間、助手が驚いたように周囲を見回した。
「博士? どこですか?」
A博士は助手の目の前に立っていた。
「ここだよ」
しかし、その声は助手には届かない。
A博士は助手の肩に手を置いた。
けれど、助手は何も感じていない様子だった。
目の前にいる。
確かにそこにいる。
それなのに、誰にも確認できない。
A博士は、胸の奥からこみ上げる興奮を抑えきれなかった。
「おお……これだ。これこそ完全な透明化だ」
姿だけを消す技術なら、これまでにも理論上はいくつかあった。
しかし、見えないだけでは足りない。
触れられれば分かる。
音がすれば気づかれる。
匂いがすれば存在を疑われる。
だが、この装置は違う。
存在しているのに、存在していないものとして世界に扱わせる。
それは、これまでにない発明だった。
A博士は興奮したまま呟いた。
「さて、これを実用化して世に出すとするか」
もちろん、その声も誰にも聞こえなかった。
しばらくして、A博士は実験を終えるため、装置の解除ボタンを押した。
何も起こらなかった。
「あれ?」
もう一度押す。
反応はない。
設定を確認する。
表示も変わらない。
透明化を解除する機能が、なぜか働いていなかった。
しかも、装置そのものの制御機能も停止している。
「さっきまでは正常に動いていたのに、なぜだ?」
A博士は、最初のうちはそれほど慌てなかった。
「まあ、いい。修理すれば済むことだ」
そう考えて、作業に取りかかった。
しかし、装置は一向に直らなかった。
A博士は文字を使って助手に状況を伝えた。
声は届かなくても、文字なら伝えられる。
助手と協力しながら何日も調整を続けたが、結果は変わらなかった。
A博士は透明のままだった。
生活できないわけではない。
椅子に座ることもできる。
食事も取れる。
文字を書くこともできる。
ただ、何かと不便だった。
人と話せない。
自分の存在を直接示せない。
誰かにぶつかられそうになっても、相手は避けてくれない。
それでもA博士は、まだどこか呑気だった。
「まあ、そのうち直るだろう」
しかし、その考えはすぐに消えた。
ある日、研究室に屈強な男たちが入ってきた。
彼らは助手を押さえ、低い声で告げた。
「A博士を拘束する」
A博士は息をのんだ。
なぜ知られているのか。
誰が情報を漏らしたのか。
男たちは、A博士の姿を見ているわけではなかった。
それでも、研究室の構造、装置の位置、助手の視線、床に残るわずかな痕跡から、A博士の居場所を推測していた。
A博士は逃げようとした。
だが、助手が人質に取られていた。
「動けば、この者の安全は保証しない」
A博士は、動けなかった。
見えないはずの身体に、特殊な拘束具が投げつけられた。
場所を完全に特定できなくても、「おそらくここだ」という範囲を封じることはできる。
A博士は捕まった。
牢獄に入れられてから、ようやく事情を聞かされた。
透明化して戻れなくなったA博士は、国にとって重大な危険分子とみなされたらしい。
見えない。
聞こえない。
触れられない。
気配もない。
そんな人物が自由に動き回れば、機密情報は盗まれ放題になる。
重要施設にも侵入できる。
誰もその存在を確認できず、誰も証明できない。
「あなたを外に出すわけにはいかない」
そう告げられた。
A博士は、透明化を解除する装置が開発されるまで拘束されることになった。
しかし、その装置が完成することはなかった。
世間では、A博士は研究中の事故で死んだことになっていた。
家族も、友人も、学会の人間も、誰もA博士が生きているとは知らない。
知っている者たちは、皆沈黙した。
A博士は、誰とも会えないまま、誰にも知られないまま、年月を重ねた。
そして最後には、存在そのものを消すように処分されることになった。
処刑の日。
A博士は、誰にも見えない身体で、誰にも聞こえない声を震わせた。
「私は、ここにいる」
誰も反応しなかった。
「私は、確かにここにいるんだ」
やはり、誰にも届かなかった。
A博士は、死の直前になって初めて、自分の発明の本当の意味に気づいた。
見られない。
聞かれない。
触れられない。
匂いもなく、気配もない。
それでも自分は存在しているつもりだった。
けれど、誰の感覚にも届かず、誰の認識にも残らず、どこにも記録されない存在は、果たして存在していると言えるのだろうか。
A博士は、最後にこう思った。
「結局、私の正体とは何だったのだろう」
そして、ひとつの答えにたどり着いた。
正体とは、自分の中にあるものではなく、誰かに感じ取られたときに初めて形を持つものなのかもしれない。
A博士の最後の言葉は、誰にも聞こえなかった。
だから、その言葉が本当に存在したのかどうかも、誰にも分からない。
―――――
何も感じ取れないものがあったとして、それをどうやって存在していると確認すればよいのだろうか。
目に見えないものでも、顕微鏡や望遠鏡を使えば確認できる。
音として聞こえないものでも、波形として記録できる。
匂いが分からなくても、成分を分析することはできる。
しかし、それらも結局は、どこかで人間の感覚に変換されている。
顕微鏡で見るなら、視覚が必要になる。
数値で示すなら、その数値を読む目が必要になる。
計算で存在を推測するなら、そこには理解と想像力が必要になる。
つまり私たちは、直接であれ間接であれ、何らかの形で「感じ取れるもの」だけを存在として扱っているのかもしれない。
では、完全に誰にも感じ取られないものはどうなるのだろう。
そこにあるのに、誰にも見えない。
触れられない。
記録できない。
想像する手がかりすらない。
それは「存在している」と言えるのか。
それとも、存在していないのと同じなのか。
人間もまた、似たところがある。
名前を呼ばれる。
顔を覚えられる。
声を聞かれる。
誰かの記憶に残る。
そうしたものによって、私たちは「自分がここにいる」と感じている部分がある。
もちろん、誰にも見られなくても、自分は自分だと思いたい。
誰かに認識されなければ価値がない、とは言いたくない。
けれど、誰にも届かず、誰にも残らず、誰にも感じ取られないまま終わるとしたら、
その存在は、どこにあったと言えるのだろうか。
正体とは、内側に隠された本質のことなのか。
それとも、誰かの感覚や記憶に触れたとき、ようやく浮かび上がる輪郭のことなのか。
見えないものが本当にないとは限らない。
けれど、感じ取る手段をすべて失ったとき、私たちはそれを「ある」と言い続けられるのだろうか。
誰にも気づかれないまま、
自分の輪郭まで薄れていきそうな夜。
それでも、たった一人に届くことで、
もう一度「ここにいる」と思える歌です。
行き交う人の波に 押し流されるたびに
私だけが少しずつ 透けていくような気がした
うまく笑えているかな 鏡に問いかけても
心だけが ずっと置き去りのまま
足跡さえ残せないまま 歩き続けてる
声に出せない言葉を 飲み込むたびに
届かないのなら 最初から
いないのと同じなのかな
ねえ、私はここにいるよ
どんなに上手に 息を潜めても
痛いくらい 鼓動は鳴っているから
誰か一人でいい 見つけてほしい
消えそうな 私の輪郭を
暗い部屋の隅っこ 膝を抱えて気づく
本当に怖いのは 見えないことじゃなくて
悲しみの温度すら 誰にも触れられずに
心まで 薄れてしまいそうなこと
何百人もの 視線なんていらない
たったひとつの 確かな灯りが欲しい
「そこにいるね」と 頷いて
ただ受け止めてくれるだけで
ねえ、私はここにいるよ
世界中が 私を通り過ぎても
痛いくらい 鼓動は鳴っているから
誰か一人でいい 触れてほしい
冷え切った 私の心に
名前も顔も見えない言葉が
今日も世界を 飛び交っている
それでも確かに 触れられるあなたが
そばにいてくれたから
私は私を 失わずにいられた
ねえ、私はここにいるよ
祈るように 小さく呟いてみる
夜が明けて 射し込む朝の光
遠くで名前を 呼ばれた気がした
ねえ、小さな声でもいい
夜の隅で 震えていても
痛いくらい 鼓動は鳴っているから
あなたがそっと 気づいてくれた
消えそうな 私の輪郭に
少しだけ 景色が色づいていく
私は、ここにいる
確かに、ここにいる