知っていることは、経験したことと同じなのか。
画面の中に世界が収まり、外へ出なくても「分かった気」になれる時代がある。
けれど、分かった気になれた瞬間ほど、取りこぼしているものが見えにくい。
経験をめぐる小さな思考遊戯。
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それはハラハラドキドキの、スペクタクルファンタジーの連続だった。
A子は、毎日の生活にとても満足していた。
ベーシックインカムにより毎月給付されるお金で十分足りていたので、仕事をしないで生活をしていた。加えてボランティアで創作活動を手掛けており、充実した日々を送っていた。
そんなある日のこと、これまでにない画期的なオンデマンド配信サービスが開始された。
そこで配信されるものは、涙あり笑いあり、何でもありの、どれだけ見ていても飽きないものばかりだった。
一日中どころか、ずっと見ていられた。
他の娯楽もそれとは比べ物にならず、オンデマンド配信だけで満足できるため、ほとんど意味をなさなかった。
それはA子が生まれた時からあり、食事は家に届けられ、他の全てはインターネットで処理できた。
そのためA子は、一歩も外に出たことがなかった。
それでもA子は、インターネットの情報とオンデマンド配信から得た知識により、この世のあらゆる事を知っていた。
だから、いくらでも想像できた。
そんなある日、何事も経験しないと気がすまない人生を歩んできたB子と、リモートで対面する機会があった。
A子は、自分が知らないことを聞けるのではないかと楽しみにしていた。
ところが実際に話をしてみると、自分が知っている話ばかりだった。
A子は言った。
「申し訳ないけど、私が知っていることばかりでしたわ」
するとB子は言った。
「そうなの。それは残念ね。でも実際に経験してみないと分からないんじゃないかしら。あの感じは、伝わらないと思う」
それを聞いたA子は、最後にこう締めくくった。
「そうね。でも――“外に出ない人生”のことは、あなたにも分からないんじゃないかしら」
そして、接続が切れる前に二人同時に言った。
「でも、想像はできるわね」
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知識と経験は、しばしば対立する。知識は“分かる”を与え、経験は“感じる”を与える。だが、どちらか一方だけが真実というわけでもない。
経験は、身体全体で世界を受け取る分、情報量が多いと言えるのかもしれない。とはいえ、経験しないと知識を得られないわけでもないし、経験したからといって理解が深まるとも限らない。感じ方は人それぞれで、同じ出来事でも残るものが違うからだ。
ただ、コミュニケーションと共感を考えた時、ズレが生まれやすいのは確かだ。知識だけで話す人と、体験から話す人は、同じ単語を使いながら別のものを見ていることがある。
たとえば、ハワイのワイキキビーチを映像だけで観た人と、実際に行った人では、持っている“世界”が違う。潮の匂い、人だかり、足裏の砂、湿った風、店の気配──映像に映らない細部が、記憶の輪郭を作る。
では、もし視覚だけでなく、五感の全てを記録し共有できたらどうなるのか。視覚だけなら同じと言えても、五感の接続が可能になった時、経験は「個人のもの」から「再生可能なデータ」へと変わるのだろうか。
“経験”は情報量の問題ではなく、身体が世界に差し出した時間の痕跡なのかもしれない。
だとすれば、五感が完全にコピーできる未来でさえ、なお「経験する意味」は残るのだろうか。あるいは、意味の置き場所そのものが変わるのだろうか。