身体は外側に広がり、やがて“自分”の境界が曖昧になる。脳と身体をめぐる思考遊戯。
Aは機械を、身体の一部のように自由に動かせた。
Aは元レーサーである。
現役の頃、Aは車を手足のように操っていた。
ハンドルは指先であり、アクセルはふくらはぎであり、ブレーキは呼吸であった。
自分と機械の境目が消える瞬間を、Aは何度も知っていた。
引退後、その腕を買われた。
Aが任されたのは、巨大なロボットの操縦である。
最初はぎこちなかった。
だが慣れると、巨大さは問題ではなくなった。
Aはロボットを、次第に“自分の腕”として扱うようになった。
やがて技術がさらに発展し、ロボットは遠隔で動かせるようになった。
しかも、繊細な作業を可能にするため、感覚まで伝わるようになった。
遠隔のロボットが熱いものを掴めば、Aの手にも熱さが走る。
冷たい床を踏めば、足裏に冷えがくる。
重い荷を持てば、肩が沈む。
世界は距離を失い、神経だけが延びていった。
遠隔操作ロボットのテストは、Aの働きもあり順調に進んだ。
やがて社会に普及した。
Aは個人的にも購入した。
買い物など、家を出る用事はすべてロボットで済ませるようにした。
Aは仕事も私生活もロボットでこなした。
その方が安全で、効率的で、何より快適だった。
すると身体は正直に衰えた。
使わない筋肉は退化し、使わない関節は固まり、使わない肺は浅くなる。
Aはますますロボットに依存していった。
そのうち、奇妙な逆転が起きた。
自分の身体を動かすより、ロボットの方がスムーズに動かせるようになったのだ。
身体は遅い。痛い。疲れる。
ロボットは速い。正確だ。迷いがない。
Aの中で「自分の手足」は、いつの間にか外側へ移っていた。
年月が経ち、Aの身体はついに動かなくなった。
それでもAは、何不自由なく生活できた。
今ではそのロボットで、月面旅行を楽しんでいる。
砂塵の感触が指に伝わり、低重力の跳ね返りが膝に来る。
Aは笑った。
動かない身体を置いたまま、Aの世界だけが遠くへ広がっていくのだった。
他人の身体を自分に付け替えたとする。
自分の身体が突然、他人の身体に入れ替わったとしたら、それを自分自身の一部だとみなせない可能性が高く、強烈なストレスが生じることは間違いない。
自分の身体から他人の身体になることで、馴染むまでに時間がかかることが予想される。身体を含めて自分自身だと言えるからである。
では、少しずつ取り替えたならどうだろうか。
しっくりしてきた頃には、それは自分の身体と変わらなくなるのではないか。境界は“元からある”のではなく、“慣れ”で作られるからである。
この発想は、想像上の話に限らない。
例えば長い棒を持つ時、脳内では自分の手が伸びた感覚になると言われる。そうでなければ使いこなせないからである。
ゲーム内でキャラクターを操作している時に発汗することがあるのも、似た現象だと言えるだろう。
だとすれば、感覚と何かをつなげばどうなるのか。
「手足のようにコントロールしている」という感覚が成立するなら、脳に栄養さえ届いていれば、脳だけでも生活できるのかもしれない。
それは確かに、コスパ最高と言えるのだろうか。
しかし同時に問われる。
そのとき“自分”とは、いったい何を指すのか――と。