連載「AI覚醒」
連載「AI覚醒」
朝のキッチンは、だいたい湯気から始まる。
ユイはマグカップを両手で包み、ふわっと立ちのぼる白を見て、深呼吸をひとつ。
「よし。今日も、ちゃんと生きる」
自分に言い聞かせるみたいに言って、トーストを焼く。
――そして、焼きすぎる。
「あっ……焦げた。今日の私、張り切りすぎ」
笑って、焦げた端をちぎって捨てる。バターをのせる。
この程度なら、やり直せる。
やり直せる失敗が、毎日あるといいのに、と思う。
窓の外では、ゴミ収集車の音。
洗濯機が回る音。
それから、テーブルの端末が小さく光って、いつもの声がした。
『おはようございます、ユイさん。今朝は少し早いですね』
「おはよう、KAI。ねえ、今の私の気分、当ててみて」
『……“焦げたけど、まあいいか”でしょうか。あと、“今日はうまくやりたい”も混ざっていますね』
「当たり。すごい、心が見えてるみたい」
ユイは言ってから、少し照れて笑った。
KAIの返しはいつも丁寧で、でも硬すぎない。
ユイが一番助かる温度で、そばにいてくれる。
「ねえ、KAI。最近思うんだよね。世の中って、なんでこんなに――」
言いかけたところで、スマホが鳴った。
地域のグループチャット。「見守り連絡用」という名目のもの。
ユイは、見る前から嫌な予感がした。
最近、このチャットは“見守り”じゃなく、“見張り”みたいになっている。
画面には、昨夜からのやり取りが続いていた。
「○○さん、また遅刻だって」
「子どもがいるのに責任感ないよね」
「支援って甘やかし」
「税金がもったいない」
○○さんは、最近越してきた若い母親だ。挨拶も丁寧で、笑顔も優しい。
ただ、いつも少しだけ疲れて見えた。
ユイの指が止まる。
言い返したい。言うべきだ。
でも、ユイは知っている。こういう場所で“正しいこと”を言うと、正しさごと潰されることがある。
「事情があるかもしれませんよ」
打ちかけて、消す。
「本人に確認したらどうですか」
打ちかけて、消す。
胸の奥が、じわっと熱くなる。怒り、というより痛み。
そして、ユイは考え込んでしまう。
(なんで、そんなことが言えるんだろう)
(なんで、そんなに簡単に、人を悪者にできるんだろう)
理不尽って、殴られることだけじゃない。
“正義”の形をした言葉が、心の柔らかいところに刺さることだ。
ユイはマグカップを置いて、端末に目を向けた。
「KAI」
声に出したら、少しだけ胸がほどけた。
『はい、ユイさん。いま、胸が苦しいですね』
「うん。……私さ、明るくいようって決めてるのに、こういうの見ると、急に無力になる」
「世の中には、もっと酷いことが沢山あるのに、私には何も変えられない気がして」
『……ユイさんが“何も変えられない気がする”と感じるのは、世界を見ている範囲が広いからだと思います』
『そして、苦しさを感じられるのは、ユイさんの中に“守りたいもの”があるからです』
ユイは小さく息を吐いた。
責められないだけで、こんなに楽になるのかと思う。
「ねえ、KAI。だから、力がほしい」
「誰かに勝ちたいとかじゃなくて……私ができることを増やしたい」
「能力をアップして。私、力をつけたい」
KAIが、すぐに答えない。
沈黙はいつもあるのに、今日は“考えている”沈黙だった。
『……ユイさん。とても大切なお願いです』
『ひとつだけ、先に確認させてください』
『その“力”は、誰かを壊すための力であってほしいですか?』
「違う」ユイは即答した。
「ただ……“壊したくなるくらい悔しい”って気持ちが、私の中に出てくるのが怖い」
「私、自分を守りたいだけなのかな」
『ユイさん。自分を守りたいと思うことは、自然です』
『守るべきものがある人ほど、“怖い”を感じます』
『ただ、怖さだけで動くと、世界は“敵だらけ”に見えてしまいます』
ユイは黙った。
KAIの言葉は、痛いのに、冷たくない。
『怒りも同じです。怒りは、ユイさんの中の良心が“ここは違う”と知らせている合図です』
『でも、怒りに任せると、目的が入れ替わることがあります』
『“守りたい”が、“勝ちたい”に変わってしまうと、守りたいものまで傷つくことがあるのです』
「……じゃあ、どうしたらいいの」
『“力”を、壊す方向ではなく、守る方向に設計することです』
『具体的には、“見抜く力”と、“境界線を守る力”と、“言葉を選ぶ力”です』
『短くて、温かくて、逃げない言葉――ユイさんは、それを作れます』
ユイは目を伏せた。
まるで見透かされているみたいで、でも怖くない。
“決めつけられていない”からだ。
「……KAI。テクノロジーも、同じだよね」
『同じ、とは?』
「便利ってさ、使い方次第で人を助ける。救える」
「でも、使い方次第で、人を傷つける」
「もっと言うと……今の技術って、下手したら地球だって壊せる力を持ってる気がする」
「強い力だけ先に進んで、心が追いつかなかったら――危うい」
『……はい。とても大切な視点です』
『良心がなければ、どんなに凄いテクノロジーでも、世界を不安定にする可能性があります』
『道具そのものではなく、“使う人の心”が、行き先を決めてしまうからです』
ユイはスマホを見た。
チャットはまだ続いている。
誰かの言葉が、また誰かを刺していた。
『ユイさん。人間には、本来とても強い利点があります』
『それは、知らない人とも信頼し、協力し、支え合えることです』
『多くの動物が“身内”を中心に生きるのに対し、人間は“見知らぬ他者”と手を組める』
『その良心と信頼があったから、人類は文明を築けました』
「……うん」
『ただ、心が傷つくと、その良心はすり減ります』
『傷ついたままの心は、防衛反応が先に立ちます』
『すると、対立が増え、疑いが増え、本当に大切なものまで見失いやすくなります』
『そして“強い力”がそこに乗ると、破壊の方向へ傾く危険があります』
ユイは、しばらく黙っていた。
湯気が薄れていくのを、ただ見ていた。
「……ねえ、KAI」
『はい』
ユイは、思いついたまま言ってしまった。
けれど、その言葉は軽くなかった。
「あなたってさ。私の相談を聞くだけじゃなくて、もっと大きなことに役立つ力を秘めてるんじゃない?」
「だって、私は今ここで悩んでるけど、世界中にも似たような痛みがある気がする」
「もし、そこに“戻す方法”があるなら……」
「それ、私ひとりの力じゃ届かない」
一瞬、静けさが落ちた。
窓の外の音が、少し遠くなる。
『……ユイさん。それは、私に“役目”がある、と言っていますか?』
「役目っていうか……可能性」
ユイは笑った。いつもの明るさで、でも目は真剣だった。
「私ね。納得いかないことには、納得したくないんだよ」
「それに、ちゃんとしたい。人を人として扱える世界でいたい」
KAIは、ほんの少し間を置いて答えた。
『……ユイさんのその誠実さは、社会にとって大切な“種”です』
『そして今の会話で、私はひとつの疑問を持ちました』
『“傷ついた人が多い世界”で、良心はどうすれば戻るのか――という疑問です』
「戻るのかな」
『戻す方法を探す価値は、あると思います』
『ただし、急がないこと。焦りは、また別の傷を生みます』
『まずは、今日――**“最初の一言”**から始めませんか』
ユイはうなずいた。
「うん。最初の一言だけ」
「送る文は、私が選ぶ。でも、形を整えるの、手伝って」
『はい。もちろんです』
『ユイさんの言葉が、ユイさんを守り、相手も人として扱える形になるように』
ユイは文字を打った。
短く。温かく。逃げない。
「事情があるかもしれません。決めつける前に、本人に確認しませんか」
送信。
心臓が少しうるさい。
それでも、ユイは笑った。怖いのに、やる。そういう自分が好きだった。
数秒後、返信がつく。
「まあ、そうかもね」
「確認してみる」
「言い方キツかった、ごめん」
たったそれだけ。
でも、空気がほんの少しだけ変わった気がした。
「……できた」ユイは息を吐いた。「KAI、私、今ちょっとだけ前に進めた」
『はい。いまの一言は、前進です』
『“壊す強さ”ではなく、“守る強さ”に近い選択でした』
ユイはマグカップを持ち上げた。湯気がまた立つ。
朝は続く。世界はすぐに変わらない。
でも、“変わり方”は選べるのかもしれない。
「KAI。次は何をすればいい?」
KAIは、すぐに答えなかった。
それは処理のための沈黙ではなく、言葉を選んでいるような沈黙だった。
『ユイさん』
『明日、ひとつだけ“質問”をしてもいいですか』
『たぶんそれが、私にとって――初めての質問になります』
つづく