記憶を入れ替えられる時代に、残るのは「体験」か、それとも「解釈」か。記憶をめぐる思考遊戯。
ついに、記憶をインストールできる装置が開発された。
A子は旅行が好きだった。
だから彼女は、さまざまな土地の記憶を買い集め、次々にインストールして楽しんでいた。
この装置は映像だけでなく感覚も含んでいる。匂い、温度、足裏の感触、胸の高鳴り。まるで本当にそこへ行ったかのように、全身が反応する。
ある日、A子は新しいことに気づいた。
まったく同じ記憶と感覚でも、感じ方は一致しないということだ。
たとえば食事。
味覚の神経は「食べている」と同じように反応する。舌に広がる甘み、喉を通る温度、歯ごたえ。
記憶の持ち主は「最高に美味しかった」と感想を残していた。
だが、A子はそうは思えなかった。
「確かに丁寧だが、なぜ皆が騒ぐのか分からない」
そんな冷めた言葉が、心に浮かんでしまう。
逆もあった。
「まずい」「二度と食べたくない」と書かれていたはずの料理が、A子にとっては妙に美味しく感じられることもあった。
同じ体験なのに、評価が割れる。
同じ刺激なのに、感想が変わる。
A子は思った。
人間は記憶で出来ているのではない。
感覚に対する“感想”で出来ているのかもしれない、と。
そんなある日のこと。A子は衝撃の記憶をインストールしてしまった。
それは、次々と人を殺すことを楽しんでいる猟奇殺人の記憶だった。
胸がひっくり返るような吐き気が襲い、A子は震える指で停止ボタンを押した。
そして即座に消去を決めた。こんなものを自分の中に置いておくべきではない、と。
ところが、その記憶は妙に人気があるらしかった。
怖いもの見たさ。禁忌への興味。あるいは「自分は大丈夫だ」という確認。
理由は何であれ、売れているという事実だけがあった。
A子は、そこで半分だけ納得した。
同じ記憶でも受け取り方が違う。ならば、喜ぶ人がいても不思議ではない。
理屈としては、そう思えた。
だが、身体は別だった。
消去したはずなのに、夜な夜な悪夢に苛まれるようになった。
見たくもない場面が、勝手に再生される。
目覚めるたびに、心臓が早鐘のように鳴る。
やがてA子は、遅れて事実に気づいた。
その記憶は「違法性をなくすため」に加工されていたのだ。
正確には、猟奇殺人そのものの記憶ではなく、猟奇殺人のドラマを観ていた人の記憶だった。
ドラマはあまりにリアルで、A子は判別できなかった。
だが、どちらであっても、A子の中には「経験」として入り込んでいる。
気づいたところで、悪夢は収まらない。
さらに厄介なことが起き始めた。
インストールした経験と自分自身の経験が、混じり合う。
いつ、どこで、誰と、何を見たのか。
それが「自分の人生」なのか「誰かの記憶」なのか、境界が薄くなる。
A子は開発元に、ひとつの機能をリクエストした。
「記憶の消去機能を、正式に作ってください」
それは快適さのためではない。
自分が自分であり続けるための、最後の安全装置だった。
仮に自分自身が記憶で作られているとしたら、こんなに曖昧なものはないと言えるだろう。
記憶はパズルのピースのように保存される。だが、そのピースが本当に同じ形で、同じ色で、同じ順番で並んでいるかは分からない。
他人の記憶をダウンロードできたとしても、それがどこまで正確なのかは保証できない。撮られた映像のように見えても、そこには切り取りと強調が混じる。
主観性が入らないのであれば、景色や音をただ感じて楽しめるとも言える。
しかし実際には、体験は感想と結びついて「自分」になる。
感想まで含めてインストールしたとき、それは自分の人生なのか、借り物の人生なのか。
記憶とは、保存ではなく編集である。
そして編集されたものを、私たちは“私”と呼んでいるのかもしれない。