全体の幸福は、魅力的だ。
けれどその言葉は、ときどき 誰かを消す言い訳にもなる。そんな思考遊戯。
A男は、大きな問題を抱えていた。
A男は能力を評価され、密かに“人類救済”の任務を任されていた。
量子コンピューターの計算では、このままでは多くの人が不幸になるだけでなく、最悪の場合、人類が破局へ向かう確率が跳ね上がっていた。
それを避ける方法は、すでに出ている。
しかもその方法を使えば、問題が解決されるだけでなく、莫大な利益すら生じる。
一見すると、何の問題もない。
……はずだった。
それでもA男は、眠れなかった。
「証拠は残らない」
「救える命の数は圧倒的だ」
「長期的視野で見れば、滅亡すら防げる」
A男は自分に言い聞かせるように、独りごちた。
「やらなければ、もっと多くが死ぬ」
任務の許可はすでに出ている。
ごく僅かな人間だけが知る極秘の決裁。
覆せる余地は、ほとんどない。
その方法を使えば、人類の移動は制限され、環境負荷は緩やかになる。
爆発的になりつつある人口増も、ある程度抑えられる。
さらに、人々の意識や行動様式そのものが変わる。
全体にとっては、合理的だ。
ただし――
弱い人間が犠牲になる。
A男の喉が、乾いた。
「命を天秤にかけることはできない」
「ましてや“弱い者だけ”なんて、許されるのか?」
理屈は理解できる。
だが、理解できることと、許せることは違う。
そして何より、A男には分かっていた。
自分がやらなくても、誰かがやる。
すでに“解決方法”が存在する以上、実行は遅かれ早かれ起きる。
だから本当は、公開して議論すべきだ。
反対も、怒号も、涙も、当然起きるだろう。
それでも、選ぶなら、みんなで選ぶべきだ。
……だが、それでは遅すぎる。
量子コンピューターは、冷たい数字で示していた。
タイムリミット。
刻一刻と近づく期限。
議論する時間すら、すでに“損失”として計上されていた。
A男は、決められなかった。
決められないまま、時間が過ぎた。
そして、世界は変わった。
A男が関与しない場所で、何かが実行されたのだ。
それは公表されず、説明もされず、ただ“状況”として浸透していった。
A男は画面を見つめた。
人々は騒ぎ、疑い、やがて慣れた。
「仕方がない」という言葉が増え、
「誰かが決めた」という空気が広がった。
A男は思った。
「俺が決めなくても、結局こうなるのか」
そして、さらに気づいた。
自分が抱えていた苦悩は、道徳の問題ではなく、
責任の所在の問題でもあったのだと。
誰もが、全体を守りたい。
だが誰もが、手を汚したくない。
だから決定は、いつも“見えない場所”へ移される。
A男は、静かに目を閉じた。
全体は守られた。
たしかに守られた。
けれど――
その“全体”の中から、最初にこぼれ落ちた人たちは、
誰の記憶にも残らないまま、消えていく。
―――――
科学の発展は、多くの人にとって喜ばしいことだ。
だが、一般に出回らない極秘情報まで含めれば、想像を超えた技術がすでに存在していても不思議ではない。
そして、知らないことは、気づくことすらできない。
仮に何かが起きても、確証が得られない限り、陰謀論として片付けられてしまう。
重要なことだからこそ、多くの人が知っているはずだ――そう思い込むのは、案外危うい。
緊急性が高ければ、全体の意見をまとめる時間がない場合もある。
多数の意見が、必ずしも正しいとも限らない。
専門性が必要な場面もある。
それでも、知らないところで「全体の幸福」のために、少数の犠牲を選ぶことは許されるのだろうか。
「知らないほうが幸せな場合もある」
そう言い切ってしまえば、話は終わる。
だが終わらないのは、犠牲が“誰か”だからだ。
そして、その誰かは、いつか自分になる可能性があるからだ。
あなたが守りたい「全体」は、誰を含み、誰をこぼすのか。