いまは、口先だけで利益が出てしまう時代なのだと思います。
ネットでマーケティングが進化し、コピーライティングも洗練されました。
本来それは、良いものを必要な人に気づいてもらうための手法だったはずです。
けれど現状は、いらないものまで押し付けてくる場面が増えました。
“売り込みが上手い”ほど、受け取ったあとにこう感じることが増えます。
無理やり見せられた
無理やり選ばされた
騙されたような気がする
後悔だけが残る
そして、特に顕著なのは「物」よりも、映画、ドラマ、動画、音楽のような分野かもしれません。
物は形があり、買う前に比較もしやすい。
けれど映像や音は、実際に観たり聴いたりしてみないと分からない。
だからこそ、言葉や演出で“先に気分を作る”ことができてしまう。
期待を膨らませ、空気を作り、逃げ道を消して、体験そのものを「買った気」にさせる。
そして観終わったあとに残るのは、満足ではなく、
「観させられた」「買わされた」という後味だったりするのです。
ここで怖いのは、後悔そのものではありません。
“後悔せざるを得ない作り”が、どんどん洗練されていくことです。
怒りや興奮、賛否が割れる刺激――そういう感情は口コミを生みます。
そしていつのまにか、私たちは「選んだつもりで、選択肢を奪われている」ことさえ忘れてしまいそうになります。
さらに、もう一つ思い出してしまうことがあります。
原作があり、すでに多くの人に愛されている作品が映像化されるとき、
もし作者へのリスペクトが欠け、「数字のための改変」が優先されたら、どうなるのか。
観客の側は「面白ければいい」で済ませられるかもしれない。
けれど作者の側は、作品の核を削られ、人生そのものをないがしろにされたように感じることがある。
そして実際に、そのような苦しみの末に命を絶ってしまったと聞いたこともあります。
あれはエンタメの話というより、「人を数字に変えていく時代」の象徴に見えました。
そして、ここにも同じ構造がある気がします。
「参考にしている」のか、「盗んでいる」のか。
境界線は曖昧で、だからこそ利用されやすい。
けれど、相手への敬意もなく、核を抜き取り、表面だけを使い回して利益に変えるなら、
それは「参考」ではなく、盗んでいると言っていいのだと思います。
クリエイターを名乗りながら、何かを生み出すのではなく、
自分を捨ててしまう行為にも見えるのです。
ただ、ここも大切だと思うのです。
原作への価値理解があり、丁寧な敬意があるなら、多少の変更があっても、
原作よりさらに良くなる実写化だって確かにありました。
それは、簡単な奇跡ではない。
原作を読み込み、何が核なのかを理解し、壊してはいけないものを守りながら、
映像という別の器で“再構成”する。
手間ひまがかかるし、責任も重い。
本当は、ものすごく繊細な仕事です。
けれど競争が激しくなり、スピードが求められ、
余裕がなくなるほど、その繊細さは削られていく。
最近は、原作通り忠実にするだけでも精一杯――
そんな空気も、確かに感じます。
だから私は、こう思うのです。
問題は「改変があるかどうか」ではなく、
改変の中心に“人への敬意”があるかどうかなのだと。
そして、矛先は自分にも向きます。
私も、口先だけなのだろうか。
正しそうな言葉を並べるだけで、何かを分かった気になっていないか。
誰かの不安や焦りを“便利な導線”として利用していないか。
マーケティングは、才能ではなく技術です。
だからこそ、誰でも使えてしまう。
良い方向にも、悪い方向にも。
問題は「言葉が上手いこと」ではなく、
言葉で相手を動かすことが目的になってしまうことなのだと思います。
もしこの時代に、私たちに残された最後の自由があるとしたら。
それは、買う自由でも、言う自由でもなく――
選ばない自由かもしれません。
煽られていると感じたら、一晩置く。
決断を急がされていると感じたら、距離を取る。
“今だけ”と言われたら、あえて今は選ばない。
そして、もし私が何かを伝える側に立つなら、こうありたい。
うまい言い方より、正直な言い方を。
強い刺激より、静かな確かさを。
一瞬の納得より、後に残る誠実さを。
口先だけで利益が出る時代だからこそ、
中身があるものは、黙っていても残る。
私は、そちらの側に立っていたいのです。