責任を手放せば楽になる。だが同時に、自分の人生のハンドルも手放してしまう。責任をめぐる思考遊戯。
A子は、責任転嫁の達人だった。
何かが上手くいくと、自分の努力の結果だとした。
失敗や悪いことが起きた時は、すべて他人のせいにした。
そうやって生きるのは、案外楽だった。少なくとも、その瞬間だけは。
この癖のせいで、A子はできるだけ自分で決めないようになった。
専門家に相談し、判断を委ね、指示された通りに動くことが増えた。
そうすれば気が楽になったからだ。
そして、それは上手くいっていた。
うまくいった時は「私の選択が正しかった」で済む。
失敗した時は「専門家が悪い」で済む。
A子は人生を楽しむことができた。
そんなある日のこと。
A子は、自分が憎い相手をどう処理すればいいか、匿名で答えが返ってくる占断サービスに聞くことにした。
「専門家監修」と書かれているが、誰が監修しているかは分からない。それでもA子にとっては十分だった。自分で決めなくて済むからだ。
画面には、吉凶を告げるような短い文が表示された。
「事故という形が吉」
その下に、小さな文字が添えられていた。
「本結果は助言であり、最終判断はご自身で」
A子は、そこで気がついた。
「もしこの助言を実行してしまったら、相手のせいにできない。助言した側も、最初から逃げ道を用意している。結局、私が選んだことになる。私が罪に問われてしまうわ」
そして、別の疑問が胸に刺さった。
「そういえば、これまで頭にきた時、相手のせいにしてたけど……私は感情を握られていたのかしら?」
責任転嫁をすると、相手次第で自分の行動が変わってしまう。
つまり、相手がこちらを怒らせれば、私は怒りのまま動く。
相手が煽れば、煽られたまま動く。
自分の行動の鍵を、相手に渡しているのと同じだ。
A子は怖くなった。
それまでの考えを改め、逆にしてみることにした。
「上手くいった時は、アドバイスをくれた人のお陰だと思い、悪いことが起きた時は、自分の責任だとしよう」
だが、言うほど簡単ではない。
癖は、思考の形をしているだけで、実態は反射である。
百八十度変えるなど、すぐにはできない。
それでもA子は、いつかの「助言」を思い出すたびに、少しずつ怖くなった。
怖さは、逃げるためではなく、戻るために使えるのだと知った。
やがてA子は、考えを改める“チャンス”を得た。
そこでA子は、責任転嫁をしないで済む生き方を選ぼうとした。
感謝し、引き受け、逃げない。そういう言葉を、毎日唱えた。
そして、気づけばA子はこう言うようになっていた。
「○○様のお陰です。責任はすべて私にあります」
A子は、ある教団の熱心な信者になったのだった。
あとがき(補足)
責任転嫁は可能なのか。それとも責任はすべて自分にあるのか。
少なくとも、誰かのせいにして責任を追わせるなら、相手を神とみなす覚悟が必要である。なぜなら、その瞬間から、自分の行動は相手に握られてしまうからだ。
だが、だからといって「責任はすべて自分にある」を万能の正義にしてはいけない。
それは容易に、支配の入り口にもなる。何でも自分の責任だと思い込めば、次は「従う先」を求める。従う先が偏れば、責任感はただの服従へ変質する。
責任が自分にあるからこそ、従うべき対象は慎重に選ぶべきである。
責任とは、誰かに預けて軽くするものではない。
自分の自由を守るために、引き受け続ける重さなのかもしれない。