遠回りにも、意味はあるのかもしれない。失敗や気づきを、物語・歌・動画にしています。
戦場では英雄と呼ばれた男が、平和な街ではただの危険人物として扱われる。
同じ行為でも、場所と相手と名目が変われば、正義にも犯罪にもなるのだろうか。
暴力の正当性をめぐる小さな思考遊戯。
―――――
Aは、英雄だった。
かつての戦争で、もっとも多くの敵を倒した兵士の一人として、国からいくつもの勲章を授与されていた。
式典では、彼の名が読み上げられるたびに拍手が起こった。
「多くの人々を救った英雄」
「国を守った勇敢な戦士」
「自由のために戦った男」
新聞もテレビも、Aをそう呼んだ。
けれどA自身は、自分の中身をよく知っていた。
元々、Aは暴力的な人間だった。
人を殴ることに強い快感を覚える。
相手が苦しむ姿を見ると、胸の奥にたまっていたものが抜けていくような気がする。
そんな自分の性質を、Aは幼い頃から自覚していた。
だから最初は、総合格闘技の世界に入った。
そこでは、殴ることが許されていた。
むしろ、強く殴れば称賛された。
勝てば歓声が上がり、報酬も得られる。
Aにとって、それは都合のいい世界だった。
人を殴っても、怒られない。
人を倒しても、褒められる。
自分の中にある衝動が、競技という枠の中では才能と呼ばれる。
Aは満足していた。
しかし、しばらくすると、その刺激にも慣れてしまった。
リングの上にはルールがある。
レフェリーが止める。
相手が降参すれば終わる。
どれほど激しく殴っても、その先には必ず線が引かれていた。
Aは、その線が邪魔になっていった。
ちょうどその頃だった。
志願兵の募集を目にした。
Aは、深く考えずに応募した。
国のため。
正義のため。
人々を守るため。
そうした言葉は、説明としては便利だった。
だが、Aの心を本当に動かしていたのは、別のものだった。
もっと自由に暴力を振るえる場所があるかもしれない。
戦場に立ったとき、Aは初めてそれを実感した。
敵を撃った。
敵を倒した。
敵が動かなくなった。
その瞬間、これまで味わったことのないほどの爽快感があった。
もちろん、Aは知っていた。
敵と呼ばれている者たちにも、家族がいること。
子どもを抱いたことのある者がいること。
友人に優しくしたことのある者がいること。
ただ命令に従っているだけの者もいること。
それでも、Aにとっては関係がなかった。
敵である。
その一言があれば、十分だった。
Aは戦場で、迷わず動いた。
味方から見れば、彼は頼もしい兵士だった。
恐れず前に出る。
ためらわず敵を倒す。
任務を確実に遂行する。
戦争が終わり、Aが帰国したとき、国は彼を英雄として迎えた。
「あなたのおかげで多くの命が救われた」
「あなたは自由を守った」
「あなたは誇りだ」
Aは黙ってその言葉を受け取った。
自分が本当は何を楽しんでいたのかを、誰にも言わなかった。
そして平和な日常に戻ると、Aは頭のスイッチを切り替えた。
街では人を殴らない。
怒鳴られても手を出さない。
法を犯さない。
それくらいの分別はあった。
Aは、自分が危険な人間であることを理解していた。
だからこそ、戦場の外では慎重に振る舞っていた。
そんなある日のことだった。
Aは街で、一人の男を見かけた。
その男は、かつてAが戦っていた敵国の出身だった。
それだけなら、Aも何もしなかっただろう。
だがAは、ある筋から聞いていた。
その男は過去に、多くの無実の人間を手にかけた人物であり、今もなお危険な計画に関わっている。
さらに、爆発物を身につけて都心へ向かおうとしている。
Aは男を見た。
厚手のベスト。
不自然な歩き方。
落ち着かない視線。
男の手が、何かを押そうとしたように見えた。
次の瞬間、Aは飛びかかっていた。
迷いはなかった。
戦場で何度も繰り返してきた動きだった。
相手を制圧する。
危険を止める。
大勢を守る。
男はその場で倒れ、二度と起き上がらなかった。
すぐに警官が駆けつけ、Aは取り押さえられた。
Aは叫んだ。
「違う! 俺は止めたんだ! この男は危険人物だった。爆弾を持って都心へ向かうところだった!」
しかし、調査の結果は違っていた。
男は何の関係もない一般人だった。
身につけていたのは、ただの防寒用のベストだった。
不自然に見えた動きも、持病によるものだった。
Aが信じていた情報は、偽りだった。
誰かがAを騙したのだ。
Aは顔を青ざめさせた。
「俺は……なんてことを……」
だが、その直後、別の感情がこみ上げてきた。
「いや、悪いのは俺じゃない。俺を騙した奴だ。俺は多くの人間を救うつもりだった。俺はこの国のために動いたんだ」
Aは警官たちに向かって言った。
「俺は英雄だぞ。あの戦争で、どれだけの人間を救ったと思っている」
そのとき、奥の部屋から、一人の男が現れた。
かつての上官だった。
Aは、その顔に見覚えがあった。
上官は静かに言った。
「A。君の働きには感謝している」
Aは食い下がった。
「なら分かるだろう。俺は国のためにやったんだ。あのときと同じだ」
上官は首を横に振った。
「あのときとは違う。ここは戦場ではない」
「でも、敵だと思った」
「思っただけでは足りない」
「人を救うためだった」
「結果として、無実の人間が死んだ」
Aは黙った。
上官は続けた。
「君のような反社会性の強い人間を、平時の社会で野放しにしておけると思うかね」
Aは目を見開いた。
「……どういう意味だ」
「君は戦場では役に立った。敵がいて、命令があり、国が正当性を与えている状況では、君の性質は武器になった。だが、平和な街では違う」
上官は淡々と言った。
「もしまた必要な時が来たら、その時は頼むかもしれない。だが今の君は、我々にとって危険人物だ」
Aは、その言葉を聞いて、ゆっくりと笑った。
「なるほど」
その声は、妙に落ち着いていた。
「俺は、敵がいる場所でだけ生かされる人間だということか」
上官は何も言わなかった。
Aは続けた。
「なら、今の俺にとっての敵は――」
次の瞬間、Aは上官に向かって飛びかかった。
銃声が響いた。
Aは床に倒れた。
かつて英雄と呼ばれた男は、平和な国の中で、危険人物として処理された。
彼が最後に見たものは、敵ではなかった。
ただ、自分に正当性を与えたり、奪ったりする側の顔だった。
―――――
暴力は、場所によって名前を変える。
リングの上なら競技になる。
戦場なら任務になる。
国家が認めれば、勲章の理由になる。
街中で行えば、犯罪になる。
行為そのものは似ていても、そこに付けられる言葉は大きく変わる。
もちろん、すべてを同じだと言うことはできない。
格闘技には同意とルールがある。
戦争には国家や国際法や状況の複雑さがある。
誰かを守るために、やむを得ず力を使わなければならない場面もあるのかもしれない。
だが、それでも問いは残る。
限定された場所で許された衝動は、その場所を出た瞬間に本当に消えるのだろうか。
リングの上で殴る自由。
戦場で殺す正当性。
平和のため、国のため、人々を守るためという名目。
それらは、暴力を制御する枠なのか。
それとも、暴力に意味を与える装置なのか。
もっと難しいのは、その枠を決めるのが個人ではなく、社会や国家であることだ。
昨日まで英雄だった者が、今日には危険人物になる。
昨日まで必要とされた衝動が、今日には排除される。
その切り替えを、本人の内側だけで簡単に行えるとは限らない。
「敵」という言葉は、恐ろしく便利だ。
相手を敵と呼んだ瞬間、こちらの行為には意味が与えられやすくなる。
殴ることも、奪うことも、排除することも、守るための行為に見えてくる。
だが、その敵を誰が決めているのか。
その正当性を誰が与え、誰が取り上げるのか。
そこを見失ったとき、人は自分の暴力を正義だと思い込む。
もしかすると、平和とは、暴力が消えた状態ではなく、
暴力に正当性を与える言葉を、慎重に扱い続ける状態のことなのかもしれない。
「敵だから許される」と思った瞬間、その敵を決めたのは本当に自分だったのか。
その問いを残しておくための、小さな思考遊戯である。
味方を応援するうちに、
いつの間にか相手の失敗を願ってしまうことがあります。
敵と呼ぶ前に、勝ち負けの前に、
その人にも名前があり、重ねてきた日々があることを思い出すための歌です。
頑張れと 味方を祈るうち
気づけば相手が 転ぶのを
心のどこかで 願っていた
私は今、正しい側にいる
周りの熱気に 酔いしれて
応援はいつしか 刃になる
「敵」と そう呼んだ瞬間
あの人の痛みが 見えなくなる
正しさを 掲げるほどに
心のブレーキは 外れていく
でも、あの人にも 名前がある
見えない場所で 重ねた日々がある
傷つけてしまう前に
どうか一度だけ 立ち止まりたい
勝ち負けの その前に
一人の人として 見つめたい
場所が変わり 空気が変われば
同じ行動の 意味も変わる
あそこで 称賛された手が
ここでは 過ちと呼ばれるように
倒すことだけが 強いんじゃない
相手の存在を 受け止めたまま
そこから向き合う 優しさこそが
本当の強さ かもしれない
怒りや願いは 消せなくても
正しさと 呼んでしまう前に
「敵」だと 決めつけてしまう前に
その人の 努力を想いたい
誰かを裁こうと する前に
自分の心の向きを 確かめたい
勝ち負けの 向こう側にいる
あなたを、人として 見つめたい