遠回りにも、意味はあるのかもしれない。失敗や気づきを、物語・歌・動画にしています。
満たされたいという願いは、誰の中にもある。
けれど、その願いを「本来の自分」と呼んだ瞬間、人はどこまで自分を正当化できるのだろうか。
飢えを消すために飢えを解き放つことは、本当に救いなのか。
怪しい飢えをめぐる――裏思考遊戯。
―――――
A子は、夜の部屋に一人で座っていた。
古いアパートの一室。
窓の外では、街灯の光が雨ににじみ、遠くの車の音だけが薄く聞こえている。
机の上には、数ヶ月前に見つけた祖母の日記が開かれていた。
祖母は、若い頃のことを細かく書き残す人だったらしい。
貧しかった時代のこと。
欲しいものを我慢し続けたこと。
誰かに譲るたび、胸の奥に小さな穴が増えていったこと。
その中に、ひとつだけ妙に浮いた記述があった。
「飢えを外へ出す儀式」
日記には、こう書かれていた。
人の中には、食べ物では満たされない飢えがある。
愛されたい飢え。
認められたい飢え。
お金を得たい飢え。
誰にも負けたくない飢え。
我慢を重ねるほど、それは消えるのではなく、暗い場所で形を持ちはじめる。
A子は、その一文を何度も読み返した。
自分にも、思い当たるものがあった。
仕事ではいつも控えめに振る舞っていた。
本当は評価されたいのに、「私は裏方でいいです」と笑った。
恋愛でも、本当は選ばれたいのに、「相手が幸せならそれでいい」と言った。
お金に関しても、本当はもっと欲しいのに、「生活できれば十分」と自分に言い聞かせた。
けれど、本当に十分だったのだろうか。
SNSで同年代の成功を見るたびに、胸がざらついた。
友人の結婚報告に笑顔で返信したあと、スマホを伏せた。
給料日前の残高を見て、「私は何をしているんだろう」と思った。
A子は、自分が清らかな人間だから欲しがらないのではなく、
欲しがっても手に入らないことが怖いから、欲しくないふりをしているだけなのではないかと思い始めていた。
祖母の日記には、儀式の手順が簡単に書かれていた。
真夜中に、部屋の中央へ円を描く。
その内側に、自分が捨ててきたものを象徴する品を置く。
最後に、鏡を正面に置き、自分の名前を呼ぶ。
A子は、そんなことを本気で信じていたわけではない。
ただ、自分の中にある何かを、もう一度だけ見てみたかった。
床に細い紐で円を作った。
その中に、古い履歴書、別れた相手からの短い手紙、使い切った通帳、諦めた資格試験の参考書を並べた。
どれも、A子が「もういい」と言って閉じたものだった。
最後に、鏡を置いた。
時計の針が、午前零時を回る。
A子は日記に書かれた言葉を、ゆっくり読んだ。
「隠した飢えよ。
譲った顔の奥で、黙っていたものよ。
私の名を借りて眠るものよ。
ここに出てきなさい」
部屋の空気が、少しだけ重くなった気がした。
エアコンは止まっている。
窓も閉まっている。
それなのに、鏡の表面が水面のように揺れた。
A子は息を飲んだ。
鏡の中の自分が、先に笑った。
次の瞬間、鏡の前に、一人の女が立っていた。
A子と同じ顔。
同じ髪。
同じ背丈。
けれど、その目だけが違っていた。
A子の目が、いつも遠慮と迷いで少し曇っているのに対して、
その女の目は、冷たく澄んでいた。
欲しいものを欲しいと言うことに、何の罪悪感もない目だった。
女は言った。
「やっと呼んだね」
A子は声を震わせた。
「あなたは……誰?」
女は、A子の部屋をゆっくり見回した。
「あなたの飢え。
あなたが、ずっと“いい人”の顔で押し込めてきたもの」
A子は、思わず首を横に振った。
「私は、そんなに欲深くない」
女は笑った。
「そう言うために、どれだけ欲しいものを見ないふりしてきたの?」
その言葉に、A子は黙った。
女は円の中に並んだ品をひとつずつ指さした。
「この履歴書。
本当は、もっと上の会社に入りたかった。
でも落ちるのが怖くて、“自分には合わない”と言った」
「この手紙。
本当は、引き止めてほしかった。
でも惨めになるのが怖くて、“幸せになってね”と言った」
「この通帳。
本当は、お金が欲しかった。
でも拝金主義に見られるのが嫌で、“お金だけじゃない”と言った」
女は、A子の顔を覗き込んだ。
「ねえ。
あなたは清らかだったんじゃない。
ただ、負けたと認めるのが怖かっただけ」
A子は胸を押さえた。
怒りなのか、恥ずかしさなのか、分からなかった。
「それで、私は何を求めているの?」
女は、当然のことのように答えた。
「すべて」
その言葉は、思ったよりも静かだった。
「愛も。お金も。評価も。美しさも。安心も。勝利も。
あなたが欲しがることを禁じてきたもの、全部」
A子は恐怖を感じた。
けれど同時に、奇妙な安堵もあった。
誰かに、ようやく本音を言ってもらえた気がした。
女は続けた。
「大丈夫。
欲しいものを欲しいと言うだけで、世界は少し簡単になる。
遠慮をやめれば、席は空く。
譲るのをやめれば、順番は早くなる。
罪悪感を捨てれば、たいていの扉は開く」
A子は尋ねた。
「でも、それで誰かを傷つけたら?」
女は首をかしげた。
「あなたは今まで、誰かを傷つけないために、自分を傷つけてきた。
それはそんなに美しいことだった?」
A子は、すぐに答えられなかった。
たしかに、そうだった。
誰かを優先するたび、自分の中で小さな何かが削れていった。
それを「優しさ」と呼んできた。
けれど、本当に優しさだったのか。
ただ、争う勇気がなかっただけではないのか。
女は、A子の手を取った。
冷たい手だった。
しかし、強かった。
「満たされたいなら、まず飢えを認めること。
飢えを恥じる人間は、いつまでも誰かの皿を見て生きることになる」
その夜、A子はほとんど眠れなかった。
翌朝、部屋の中央の円は崩れていた。
鏡は倒れ、机の上の物は散らばっていた。
けれど、A子の頭は妙に冴えていた。
それから、A子は変わった。
会議では、今まで言えなかった提案を口にした。
手柄を曖昧にされそうになれば、「それは私が担当しました」とはっきり言った。
気の乗らない誘いは断った。
自分を軽く扱う相手には、笑って合わせるのをやめた。
最初のうち、周囲は戸惑った。
「A子さん、最近ちょっと変わったね」
「前はもっと柔らかかったのに」
「何かあった?」
A子は、静かに笑って答えた。
「少しだけ、自分を大事にすることにしたんです」
その言葉に嘘はなかった。
実際、A子の人生は好転し始めた。
仕事の評価は上がり、収入も増えた。
以前なら遠慮していた場所にも、自分から入っていけるようになった。
欲しい服を買い、行きたい店に行き、会いたい人に会った。
鏡を見るたび、A子は少しずつ綺麗になっている気がした。
ただ、少しずつ変わっていったのは、A子の姿だけではなかった。
会議で、若い後輩が遠慮がちに発言を引っ込めたとき、以前のA子なら助け舟を出していた。
けれど、その日、A子は黙っていた。
そして、空いた沈黙の中へ、自分の案を差し込んだ。
後輩は少しだけ目を伏せた。
A子はそれを見て、胸が痛まないわけではなかった。
けれど、すぐに思った。
「席を譲らない人が悪いんじゃない。
席を取れない人が、まだ飢えを認めていないだけ」
その考えは、A子を少しだけ楽にした。
友人の幸せな報告を聞いたときも、以前のように自分を責めることはなくなった。
笑顔で祝福しながら、その結婚がどれほど続くのか、心のどこかで静かに値踏みしている自分がいた。
相手の幸せを見上げるのではなく、相手の幸せにある小さなひびを探すようになっていた。
それでもA子は、自分を冷たいとは思わなかった。
「私は、もう自分を粗末にしない」
その言葉は、どんな迷いにも使える鍵になった。
ただ、ひとつだけ変わらないものがあった。
飢えだった。
何かを得るたびに、胸の穴が少し埋まる。
しかし、しばらくすると、その穴は前より大きくなっている。
評価されれば、もっと大きな評価が欲しくなる。
お金が増えれば、失うことが怖くなる。
誰かに選ばれれば、もっと特別に選ばれたくなる。
A子は気づいた。
自分の飢えは、満たされるほど弱くなるものではなかった。
むしろ、満たされるたびに、次の飢えを見つけるのが上手くなっていった。
ある夜、A子はまた鏡の前に立った。
鏡の中の自分は、以前より堂々としていた。
服も、表情も、姿勢も、たしかに変わった。
けれど、その目の奥には、あの女と同じ光があった。
A子は小さく呟いた。
「ねえ。私は、いつ満たされるの?」
鏡の中の自分が、わずかに笑った気がした。
その瞬間、A子は分からなくなった。
問いかけているのは、鏡の前に立つ自分なのか。
それとも、鏡の中からこちらを見ている女なのか。
どちらがA子で、どちらが飢えなのか。
どちらが呼び出した側で、どちらが呼び出された側なのか。
声は聞こえなかった。
それでも、答えだけは分かった。
満たされたいと願っていたはずのA子は、いつの間にか、
満たされることよりも、飢え続ける力そのものを手に入れていた。
そして、それはもう、簡単には手放せないものになっていた。
―――――
この話の裏側にあるのは、「欲望を認めること」と「欲望に支配されること」の境界だ。
欲しいものを欲しいと言えないまま生きることは、たしかに苦しい。
遠慮や我慢を美徳として抱え込みすぎれば、自分の輪郭が薄くなっていくこともある。
その意味では、A子が自分の飢えを認めたことは、ひとつの回復だったとも言える。
けれど、飢えを認めることと、飢えに主導権を渡すことは同じではない。
「私は本当は欲しかった」と気づくことは、自分を取り戻す入口になりうる。
しかし、「欲しいのだから手に入れて当然だ」となった瞬間、その飢えは、他人や未来を削る理由にもなりうる。
ここで怖いのは、飢えそのものではない。
飢えが、いつの間にか「本当の自分」という名前を与えられてしまうことだ。
本当の自分だから仕方ない。
今まで我慢してきたのだから取り返していい。
自分を大事にするためなら、多少の強引さは許される。
そう考え始めたとき、人は自分を救っているつもりで、別の形の支配に入っていくのかもしれない。
さらに厄介なのは、その変化が必ずしも分かりやすい悪として現れないことだ。
はっきり奪うのではなく、相手が引いた場所に自然に座る。
踏みつけるのではなく、相手が譲った空白を当然のように使う。
祝福している顔の裏で、相手の幸せのほころびを探す。
そういう小さな冷たさは、「自分を大事にする」という言葉の陰に隠れやすい。
飢えを認めることは回復になりうるが、飢えを正義にした瞬間、それは終わりのない命令になる。
欲望は、完全に消せるものではない。
そして、消そうとするほど、暗い場所で形を変えることもある。
だからこそ必要なのは、欲望を否定することではなく、それに名前をつけたあとで、どこまで従うのかを見極めることなのだろう。
欲望を小さくする必要はないのかもしれない。
お金が欲しい、成功したい、認められたい。
そうした大きな欲望そのものを、無理に消す必要はない。
ただ、それらを「満たされるための条件」にしてしまうと、飢えは際限なく広がっていく。
逆に、すでに満たされるための小さな器が自分の中にあるなら、大きな欲望はその外側で求めることができる。
支配される欲望とは、満たされる条件にしてしまった欲望なのかもしれない。
この物語が最後に置いている問いは、そこにある。
あなたの中にある飢えは、何を求めているのか。
それは、あなたを生かそうとしているのか。
それとも、あなたを永遠に足りない人間にしようとしているのか。
鏡の前で、その目を見つめたとき、すぐに答えられる人はどれほどいるだろうか。